納得いかない 3 彦坂様


 数日後、ランチタイムのデスク。
 食事を終えたキスティスは、空になったランチボックスを洗ってしまおうと、デスクチェアから立ち上がる。
 そこで、半分まで食べかけたサンドウィッチを持て余し、紙袋に戻すスコールに気づいた。
「スコール、それ…残すの?」
「…半分は食べた」
 言い訳めいた返事に、キスティスの眼つきが険しくなる。
「お昼ごはん、それしか食べないの?」
「…胃の調子が少しおかしいだけだ。薬も飲んでる」
「スコール、貴方まさか…それ、胃薬で治す気?」
 呆れた声を上げるキスティスを、スコールは逆に睨みつけた。
「……何が言いたい」
 キスティスは腰に手を当て、スコールを見やる。
「困った人ねえ。…貴方がやめろって言ったんでしょう?」
「何を」
「決まってるじゃないの。サイファーのメールよ」
 眉を吊り上げるキスティスに、スコールは小さく言い返した。
「…メールなら、ちゃんと来てる」 
 言い返したと言っても、まるで子どもの口答えだ。
「ええ。貴方の注文どおり、“普通”のね。それでため息ついてるんだから、世話ないわ」
 キスティスはノースリーブの華奢な肩をすくめ、席を立った。
 辛辣な指摘が弱った胃に堪えたが…体調管理も仕事のうちだと、スコール自身も分かっている。
 不調に関するキスティスの主張はおそらく正しく、胃薬で治るものでもないことも、薄々察しはついていた。
(傍目にも、そんなに俺は参ってるのか…)
 しかし、どうしてなのかが分からない。
 スコールは、口の中に残るサンドウィッチの後味をカップのコーヒーで消し、重い頭を巡らせる。
 ビジネスのメールに、余計なことを書かないでくれというのは、別におかしな注文じゃない。
 自分とサイファーが付き合うことはない、そう言い切ったのも、何も間違ってはいないはずだ。
 人生の時間には限りがある。
 付き合う気がないなら、早く知らせたほうが親切だ…そう考えて、この手の誘いはきっぱり断ってきた。
 今回は少しばかり言葉が厳し過ぎた気もするが…やんわり言って通じる相手じゃないのだから仕方ない。
 後味が悪いのも、いつものことだ…そう思うのに、ここまで自分の気が沈む理由が分からない。
(今までだって、何度もあったじゃないか)
 断る相手が男性なのも、初めてというわけじゃない。
(いつもとどこが違う? 彼が仕事相手で、これからも付き合わなきゃいけないからか?)
 あれ以来、サイファーからのアプローチはぴたりと止んだ。
 他の取引先の担当が寄こすのと同じような定型のメールに、サイファーの署名が入っているのを見ると、スコールは説明しがたい気分になる。
 一度だけ、極めて事務的な電話が掛って来た…鮮やかなほど用件のみの、無駄の無い会話だった。
 電話を切った後、胸に残る違和感が、なかなか消えなかった。
 決断の早いサイファーのことだ。
 今頃はもう、別の誰かを口説いているのかもしれない、とスコールは思う。
 もしもそうなら、喜ばしい筋書きのはずなのに、なぜか少しも気が晴れない。
 隣の課の女性の雑談、遠くのフロアで鳴っている電話のコール…昼休みのオフィスの雑音をぼんやり聞きながらスコールは瞼を閉じ、答えが出ないまま、疲れた目がしらを揉んだ。 

 * * * * *

 悪いことは重なるのか、その日、スコールは珍しく仕事でミスを出した。
 いつもならフロアの半分は居残り組だが、「基本残業禁止」の曜日に当たってしまい、久々にセキュリティセットのキーまで預かる羽目になった。
「ホントに手伝わなくていいのね? …じゃ、悪いけど先にあがるわよ」
 ジャケットを羽織り、帰り支度を済ませたキスティスが、最後にもう一度声を掛けると、スコールはデスクで俯いたまま、暗い声でぼそりと言った。
「…キスティス。頼みがあるんだが」
「…なぁに?」
 席を離れかけたキスティスが振り返り、小首を傾げる。
「…俺の担当から、…あの会社を、外してくれないか」
「サイファーのとこ? …どうして?」
 キスティスは驚いて訊き返す。
「…無理ならいい。忘れてくれ」
 スコールはひとつ首を振り、自分の発言を無かったことにしようとする。
「でも、」
「済まない…どうかしてた。大丈夫だ。…お疲れ様」
 もの言いたげなキスティスを強引に送り出し、スコールは室内に独りになった。
 昼間は騒がしいオフィスも、今はサーバの立てるかすかな唸りが聞こえるほど静かだ。
 薄暗いフロアの、スコールの机の周りだけを蛍光灯が照らしている。
(こんな単純なミスで残業をするなんて、初めてだ…)
 スコールはPCに向かって、ファイルのデータを修正し、整合を取る。
 今まで、自分はこういうミスはしない人間だと思っていた。
 そのうえ、あんな弱音まで吐いてしまって…キスティスが心配するのも無理はない。
(担当を変わりたい、なんて、ただの我儘だ)
 自分自身に幻滅し、軽率な言動を悔やんで、大きく息をつく。
(いや、軽率と言うなら、それよりも…)
 ここ数日、スコールはどうしても、あの夜のことを思い出してしまう。
(人間は、目に表れる)
 そう確信ありげに言い切った、サイファーの表情が浮かんでくる…。
 迂闊だった。
 あのとき…どうして彼の言うなりになって、あの目の中を覗いてしまったのだろう。
 サイファーの目が危険なことは、初めて会ったときから分かっていたのに。
(目を見れば、どんな考えを持っているかが分かる)
 あの、自信と誘惑に満ちた緑の両目…。
 テーブルの上で、温かい手を重ねられたことが忘れられないなんて、まったく馬鹿げてる…

「よう、はかどってるか?」

 突然後ろから声がして、スコールは弾かれたように入り口のガラス扉を振り返った。
 金髪の男が、外廊下から扉を開け、顔を覗かせている。
「サイファー…! もう時間外なのに…どうやって入った?」
 今の時刻は、身分証が無ければゲートを通れないはずだ。
 スコールの驚きをよそに、サイファーは扉を抜け、オフィスのなかに踏み入って来る。
「お前と緊急の打ち合わせがあるってことで、キスティスに通してもらった…つーか、呼びつけられたって言ったほうが早いな」
 原因に思い当たって、スコールはぎくりと身を強張らせた。
 まさか。
 …キスティスに失言を洩らしたのは、ついさっきのことだ…早過ぎる。
「打ち合わせることなんか、何も…」
「担当代わりたいって?」
 ずばり訊かれて、スコールは言葉を失い、目を伏せる。
(キスティスから連絡が行って、まっすぐここに駆けつけたのか…)
 それにしたって…業務上は誰が担当だろうが、大した問題では無いはずだ。
「今すぐ来て説明しろって、いきなり怒鳴られたぜ。キスティスは、俺がお前に何かしたと思ったらしいな」
 まだ何にもしてねえのによ、とサイファーはぼやいて、ゆっくりとした足取りでデスクに近づき、スコールの正面に立った。
「なあ、何が不満だ? こっちはお前のご希望通りにやってるだろ?」
「…別に、不満はない」
「それじゃ、何でだよ?」
「…」
 スコールは答えられない。
 説明できるような、正当な理由など、ありはしない。
 ただ、サイファーのことを考えたくない…それだけだ。
 たったそれだけのことが、なぜかどうしても上手くいかない。
 スコールの思い詰めた顔色の悪さに、サイファーは眉をしかめた。
「責任とって何とかしろってセンセが言ってたが…確かに酷いな。お前、こうなる前に何か言って来いよ」
「…何かって、何を」
 いったい自分は何を言えば良かったと言うのか…自信を失ったスコールが尋ねると、サイファーはぐっと身をかがめて、スコールに顔を近づけた。

「…素っ気ねえメールで、さびしかったんだろ?」

「な…」
 何を馬鹿な、と言おうとするのに、声が出ない。
 目を合わせたら終わりだ、スコールはそう思って必死で目を反らす。
「いい加減に素直になれよ。…俺に、会いたかっただろ?」
 サイファーの声がやたらと耳に甘く響いて、スコールの頬が熱くなる。
「…そんな訳、ない」
 かすれた声で否定しても、サイファーには通じない。
「お前の嘘、ヘタだな。外れてりゃ、そんなふうに俯いたりしないで、呆れたり怒ったりするもんだろ」
 そう指摘されても、今さら図星の顔を上げられない。
「無理やり縁切って忘れようなんて、させるかよ」
 スコールがデスクに置いていた手を、サイファーは掴んだ。
「…! 離せ!」
 もがくスコールの手を、今夜のサイファーは離さなかった。
「だって、あんた…もう、俺のことなんか興味ないだろっ」
 どうにか手を振り動かそうとする、スコールの削げた頬を、サイファーは反対側の手でそっと撫でた。
「こんなに弱って…馬鹿だなぁ。お前が言ったんだぜ? 会いに来るな、メールは用件だけにしろって」
「…」
 頬に触れられると、捕まっているスコールの手から、力が抜けた。
 床をさ迷っていたその視線が、ゆらゆらと揺れながら上がっていき…やがて吸い寄せられるままに、サイファーの両目に辿りつく。
「スコール。そろそろ自分が俺のこと好きって、分かったか?」
 目を合わせたまま駄目押しされて、眩暈がする…。
 いったいいつから、そんなことになっていたんだろう…サイファーは、いつから知っていたんだろう。
 頬に触れていた手のひらに力が籠って、サイファーの顔がさらに近付く。
「な、何す…」
「何って、お前…本気で訊いてんのか? ちゃんと見積もりに入れといただろ?」
 近過ぎる顔に焦って、椅子ごと後ずさろうとするスコールを許さず、サイファーは強引にその唇を塞いだ。
「……」
 スコールの瞼が落ちる。
 一方的に掴まれていた手が緩んで、手のひらが触れ…どちらからともなく、握り合わされる。
 いったん離れた唇に、スコールが目を開けるが、サイファーは再び唇を重ねて来た。
 どうしてこうなるのか分からない、とスコールはぼんやり思う。
 だが、初めて目が合ったあのときから…サイファーには、こうなることが分かっていたんだろうか…。
 長いキスを終えて、サイファーがスコールの目を覗き込む。
「なあ、俺のこと好きだろ?」
「…………分かりたくなかった」
 自分の負けを悟って、スコールが力なく呟く。
「契約成立、でいいよな?」
 サイファーが三度目のキスをしようとするのを、スコールはふいと顔を背けて避けた。
「でも、納得いかない。…あんたを好きになる理由がない」
 いかにも悔しそうなスコールの横顔に、サイファーは笑って、得意げに耳元で囁いた。
「教えてやろうか。そういうのを、惚れたっていうんだぜ」


 おわり!







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