納得いかない 2 彦坂様


「お、今来たとこか? 遅刻だぜ、スコール」
 入りづらい店の前で、気安く肩を叩かれ、驚いて振り返った。
 待たせているつもりの相手が後ろから現れて、スコールは反射的に腕の時計を確かめる…20時10分。
「…あんたも遅れてる」
「急だったから、仕事が片付かなくてな」
 二階の店に続く外階段を先に立って登り始める後ろ姿へ、スコールは抗議の声を上げた。
「急って…そっちが勝手に今日って決めたんじゃないか」
「一応、予定訊いただろ?」
 夕方、サイファーから突然の電話で「今日この後、何か予定入ってるか?」と訊かれ、とっさに「別に」と答えてしまったのが失敗だった。
 重厚な扉を押しあけて、店内へ入る。照明を絞ったフロアに、丸テーブルがゆったりと配置されている。
「ご予約のアルマシー様ですね。こちらへどうぞ」と、待ち構えていたウエイターに、窓際の席に案内された。
「すぐにメニューをお持ちします。少々お待ち下さいませ」
 ウエイターは恭しく一礼すると、テーブルからReservedと書かれたカードスタンドを回収していった。
 落ち着いた雰囲気のライト、真っ白なテーブルのクロス、座り心地の良い椅子…すべて品が良く上等なものだ。
 奥にとどめのグランドピアノまで据えられているのを見て、スコールは顔をしかめた。
「完全に場所の選択を間違えたな…」
「なんで。いい店じゃねえか」
「キスティスに教えてもらったんだが…男ふたりで来るとこじゃない」
「そうだな。俺も、相手がお前じゃなきゃゴメンだな」
 向かい合って座ったサイファーはさらりとそう言って、品書きに目を通す。
「ワインで良いよな?」
「俺は、アルコールは要らない」
「そう構えんなって。…これをボトルで」
 警戒しているスコールの返事を受け流し、サイファーは料理も適当に見繕ってオーダーを済ませた。
「本当はここは、エスカルゴがお勧めらしいがな。お前、アレの見た目が駄目なんだって?」
 そうサイファーに目を細められると、スコールは突然、それがひどく恥ずかしいことのように感じて、頬が熱くなった。
「何で、そんなこと知ってるんだ。…アーヴァインが言ったのか?」
「いや、キスティス。ヘタレ野郎は駄目だ。最近はお前のこと、全然教えてくれなくなっちまった」
(キスティスめ…! なんでそんなくだらないことまで話すんだ…仕事と関係ないだろ!)
「そんな怖い顔すんなって。センセにしてみりゃ、親切なアドバイスのつもりなんだからよ」
 笑いを噛み殺しながらフォローされても、スコールの怒りはおさまらない。
「…居ないところで何を言われてるか、分かったものじゃないな」
「キスティスはお前のこと、可愛くて仕方ねえんだろ。お前の席はなかなか部下が居付かなかったからな」
 人の好意に鈍感なスコールでも、キスティスが自分を特に気に掛けていることは分かっている。
 だが、そんなふうに彼女の立ち場に立って考えたことが無く、サイファーの言い分は少し意外に聞こえた。
「…前のヤツがすぐ辞めたってのは、聞いたけど」
「センセ、うるせえだろ? お前宛てのメールもきっちり見張られてっから、たいしたこと書けねーしよー」
「あんた…あれ、キスティスが読んでるって知ってて書いてたのか!?」
 サイファーの愚痴に、スコールが愕然としたところで、冷えたボトルが運ばれてきた。
「俺は…」
 要らないという印に、スコールがグラスにかざした手に、サイファーは笑った。
「白、好きなんだろ? 一杯ぐらい付き合えよ」
 それもキスティスが出どころか…。
(いったい、どれぐらい俺のことを聞きだしたんだろう…)
 ボトルの口に手を追い払われ、中ほどまで注がれたワイングラスの水面を見つめる。
 ペンダント式の照明がグラスを光らせ、液体は淡い金色にも見える…そう、確かにとても魅惑的だ。
 吸い寄せられるように、スコールはグラスのステムに手を伸ばし、薄いふちに口を付けた。

 * * * * *

「…そうか。それじゃ、この前のサンプルは作り直した方がいいかもしれないな…」
「ま、製品にしたとき、どんぐらい数作る気かによるだろ。どうしてもってなら、他に扱ってるとこが無いか当たってみるぜ」
 メールについての苦情を申し入れ、すぐに帰るつもりだった。
 それなのに、仕事の話を振られると、つい当初の目的を忘れて話し込み…気づけば、ワインボトルの色が変わり、サイファーが勝手に頼んだメインの皿がスコールの前にも置かれていた。
 年齢層は幅広いが、店内のほぼ全てのテーブルで、男女が向かい合っている。
 いつの間にかフロアの隅に現れたピアニストが、ごく控えめに、柔らかな音色を響かせ始めた。
「そういや、今日送った見積もり、あれで良かったか?」
「……金額の方だけなら」
 キス3回、が計上された不適切なメールの件を思い出し、スコールはことさら無愛想に答える。
 期待通りの反応にサイファーは満足し、ニヤリと笑ってみせた。
「ふーん…つまり、お前の唇はもっと高いってことか?」
 サイファーの気障な台詞を聞いて、スコールの全身にぞわりと鳥肌が立つ。
(なんだって、そんな歯が浮くようなことを平然と言えるのか…)
 しかも、男の自分を相手にだ。…人種が違うとしか思えない。
 寒気で顔が引きつるのを堪え、スコールはもっともらしく切り出した。
「……そういうこと言うのをやめてくれっていうのが、今日の本題だ」
 サイファーはしかし、スコールの「本題」を軽々とスルーした。
「お前、恋人いないんだろ?」
(この男は…人の話を聞いてるのか)
「…あんたには関係ない」
 イラッと来る怒りを抑え、努めて表情を動かさないように答えたスコールだったが、次の一言でポーカーフェイスも吹き飛んだ。
「そりゃ、お前の思い込みだ」
(……何だって?)
 耳を疑うスコールに、サイファーは頷いてみせる。
「そうやって決めつけんの、良くないぜ? ビジネスでも邪魔になる」
「……」
 …呆れて言葉が出ない。
 サイファーの言う通り、自分は頭が固いほうかもしれないが…いくらなんでも、ここまで柔軟な発想をしろと言われたのは初めてだ。 
 これ以上、自分の話題が続くのは不利な気がして、スコールは気を取り直し、相手に矛先を向けた。
「…あんたは?」
「俺は? 何だ?」
 グラスを傾けるサイファーは、何でも訊けよ、と言わんばかりに余裕の表情を浮かべている。
「…誰か、特定の相手ぐらい居るんだろ」
 男か女か知らないが、とスコールは心のなかで付け加える。
「いや、今は居ないぜ。…ちょっと前まで居たけどな」
 サイファーはあっさりそう言うと、自分のグラスにワインを継ぎ足した。
「…道理で暇そうにしてる訳だ」
 皿の上の肉を切りながら、スコールは我知らず、尖った口調になる。
(たぶん、転勤がきっかけで別れたんだろう。それで退屈してるんだな…)
「やっと俺に興味が湧いてきたか? いい傾向だな」
 スコールは、テーブル越しに身を乗り出すサイファーを、やや冷めた目で眺めた。
「そんなんじゃない」
 いちいち美点を挙げるのも癪だから挙げないが…この男がその気になれば、たいていの女性は落とせたに違いない。
(自信が余って、退屈しのぎに新しい遊びをしてみたくなったってとこか…)
 サイファーの一連の行動の真意が掴めず落ち着かなかったが…そういうことなら頷ける。
 あんなメールなんか、気にせず受け流せば良かったんだ。
 スコールが内心でそう結論付け、早く帰ろう、とばかりに皿の上の料理を片付け始めるのを見て、サイファーは苦笑する。
「おいおい、別に暇だから口説いてる訳じゃねえぜ。お前と会った日に、別れたんだ」
「…なんで」
 スコールが思わず顔を上げて尋ねると、サイファーは一言で答えた。
「お前と会ったから」

 * * * * *

 スコールがサイファーに初めて会ったのは、二ヶ月ほど前、アーヴァインのオフィスに追加の資料を届けたときだった。
 アーヴィンの隣の、ずっと空席になっていたデスクに金髪の男が座って、誰かと電話で話していた。
 長い脚を持て余すような座り方だ。
 鍛えられた身体に、ひと目で良いものと分かるスーツを見事に着こなしている。
(…ああ、それもいいな。出来次第送るぜ。楽しみにしといてくれ。それじゃ)
 通話が終わるのを見計らって、アーヴァインがスコールを振り返る。
(スコール、紹介しとくね。彼はサイファー・アルマシー。先週、本社から戻って来たんだ)
 初めまして、とお決まりの挨拶をしながら、失礼の無い程度に視線を上げると…サイファーは、既にスコールを見ていた。
 目が合った瞬間、どきりとした。
 サイファーの瞳は、少し驚いたように見開かれ…何かを発見したみたいに、生き生きとした輝きに満ちていた。
(…お前がスコールか。キスティスから話は聞いてるぜ。8割がた後輩自慢で、どんなヤツかと思ってた)
 目を合わせたまま、サイファーは笑った。
 見てはならないものを見てしまった気がして、スコールが反射的に目を伏せると、サイファーは躊躇なく右手を差しだして来た。
 その右手を、スコールはやや戸惑いながら、儀礼的に握った。
(…よろしくお願いします)
(おう、よろしくな)
 サイファーはスコールの手を、力強く握り返した。
 恐ろしく仕事が早そうな男だ、とスコールは思った。

 * * * * *

 その後、サイファーはすぐに別の顧客に呼ばれ、慌ただしくオフィスを後にした。
 特別なことは、何もなかったはずだ…サイファーが、その日のうちに恋人と別れるようなことは、何も。
「…俺には、そういう考えは、分からない」
 スコールは、ゆっくりと顔を伏せた。
 サイファーがそれなりに本気らしいことは分かったが、何故そうなるのかが分からない。
「…ただ、会っただけじゃないか。俺がどんなヤツかも知らないうちに、どうしてそうなる」
 漠然とした思考がそのまま口をついて出て、スコールは(不味いな)と思う。…酔っている。
「それは違うな」
「…違う?」
 不思議そうに訊き返すスコールに、サイファーは頷いて答えた。
「人間は、目に表れる。目を見れば、どんな考えを持っているか分かる」
「…それこそ、あんたの思い込みじゃないのか」
 確信ありげなサイファーの反論に、スコールはそう言い返したが、心の中では、初めてサイファーと目が合った瞬間のことを思い出していた。
 あのとき本能的に、この男とは極力かかわらないほうがいい、という強い予感がした…
 おそらく、それがサイファーの本質だ。
(サイファーのほうは…俺の目に何を見たんだろう?)
 スコールの口調が弱気になったのを見逃さず、サイファーはテーブルの上に身を乗り出す。
「それじゃ、当ててやろうか」
「…俺の考えを?」
 スコールは疑わしげにサイファーを眺める。
 こうして面と向かって会うのは、何回目だろうか。
 キスティスやアーヴァインに何を聞いたか知らないが、自分はそう分かりやすい人間ではないはずだ。
 それに、万が一見抜かれて困ることなど何も無い…そう思うのに、フロアに流れるピアノの甘く美しい音色が、スコールの心を落ち着かなくさせる。
 そんな胸の内を見透かすように、テーブルの向こうの男が口を開く。
「今日の午後、あのメールを見てから…お前は俺のことばかり考えてた」
 サイファーはニヤリと笑って、もっともらしく言い当てて見せた。
(…! そんなの、)
 ずるい答えだ。
 あんなふざけたメールを寄こしておいて、なかば当たって当たり前だろう、という憤りと、そうは思われたくない、という抵抗が同時に心中で湧きおこり、スコールは反応に迷った。
「………そんなわけないだろ」
 憮然とするスコールの葛藤を見抜いて、サイファーは噴き出した。
「照れるなよ。…当たってるはずだ」
 スコールは自分でも上手くない嘘だったと思い、俯いた。
「…いい意味でじゃない。頭に来てたんだ」
「でも、当たってるだろ?」
 都合のいい解釈をされないように撤回したのに、サイファーはますます上機嫌になってスコールの顔を覗き込み、その目を細めた。

「…キスすることも、想像しただろ?」

「な…!」
 今度こそ、スコールの心臓が跳ねる。
「そんなこと、俺は考えてない」
 顔色を変えたスコールの剣幕にも、サイファーは動じない。
「…本当か?」
 嘘だと知っているような顔で訊いてくる。
(ちがう、俺は…)
 想像したというほどじゃない。
 ほんの一瞬、頭の隅をよぎったかよぎらないか、分からないほど短い間のことだ。
「…あんたって人間が、俺にはまったく理解できない」
 スコールが内面の動揺を誤魔化そうと、テーブルに置かれたボトルに手を延ばす…その手を、サイファーは素早く捕まえる。
「あきらめるのは早いぜ」
「…!」
 逃げようとする手を逃がさず、サイファーは自分の指をスコールの指の間に割り込ませた。
 そのまま、ぎゅっと手を握り合わせる。テーブル越しに、スコールの目の奥を覗き込む。
「あ…」
 たった数秒の間に何が起きたのか分からず、スコールは放心した。
 サイファーのグリーンの両目に視線を惹きつけられ、意識を吸われる。

「…理解する気さえありゃ、ただ見つめ合うより、もっといい方法がある」

 低い囁きは熱を孕んで、絡めた指がわずかに擦り合わされ、それだけで背筋がぞくりと震える。
 サイファーの言う「もっといい方法」が脳裏を掠めて…
 スコールはハッと我に返った。
「…結構だ」
 断る声が上擦る。スコールが無理に振り切ろうと力を込めると、サイファーはその手を放した。
「スコール…怖くなったか?」
 今さら優しげな声を出されても遅い。
(たかが、手を握られただけじゃないか。…何を俺は慌てているんだ)
 そうスコールは自問するが、味わった感覚はサイファーの言うとおり、恐怖に近かった。
 心臓が激しく打っている…感情の余韻がまだ、まざまざと身内に残っている。
 ひっこめた手の指が震えているのに気付いて、スコールはその指を握りこんだ。
「…悪いが、俺が、あんたと付き合うことはない。…今日の用事は、そういうことだ」
 強張った口調で、スコールは言った。
「必要が無ければ会わない。メールにも、今後いっさい余計なことは書かないでくれ」
 言いながら、これじゃ言い過ぎだ、と思う。
 思うが、とにかくこの男を自分から遠ざけなければ…その一心で、言い切ってしまった。
 ずっと柔らかに流れていたピアノの音が途切れ、場が静かになった。
 続く沈黙に耐えきれず、スコールが顔を上げると、サイファーは、じっとスコールを見ていた。
 本心を推し図るような視線の鋭さに、スコールは再び目を反らす。
 やがて、サイファーは低く答えた。
「…分かったぜ。そこまで言うなら、お前の希望通りにしてやる」
 感情を抑えた返事を聞いて、スコールは小さく息を吐いた。
(とにかく…これで終わった)
 そのときは、そう思った。
 まるで、恐ろしい手術を済ませた後のような気分だった。







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