記憶時計 | 渡邊 直樹様 | |
春を迎え、春を見送り。夏を迎え、またそれを見送り。 季節は秋まですすんでしまっていた。 窓の外に揺れる樹々の葉の色をそっと横目で確かめ、ため息を零す。 忙しさがふっと抜けた途端、頭を過ぎるのはなかなか会えない恋人のこと。 会いたいと思う気持ちは歳を重ねるたびに強くなる。強くはなるが、しかし、あの頃のような衝動的なものは無い。 不思議なものだと、自分でも思う。 毎日会っていた頃の方がずっと攻撃的だった。 自分の思いを闇雲にぶつけるばかりで、受け入れられないことに苛立ちさえ覚えていたというのに。 理解してもらえないことが涙が出る程に悔しかったというのに。 今は、それが失われている。 「……あと10分、か」 手首につけた時計に目を下ろし、そっと呟く。 今時アナクロな奴だとそれを目敏く見つけた同僚に笑われたそれは、自分にとっては何にも代え難い宝物だ。 丁度一年前になる。 なかなか会えずにいた思い人から届いた小さな包み箱。 嬉しさに一晩眠れない程の時間を過ごした後に開いたそこには、銀色の鈍い光を放つ男物の腕時計。 小さなメッセージカードに書かれた言葉は、几帳面な四角い文字で『就職おめでとう』とただそっけなく。 嬉しさと同時に、つれなさに怒りも覚えもした。もう少し何かあっても良いだろうと正直思った。 そうしてかけた電話の向こうから聞こえた言葉はさらにシンプルで。 『すまなかった。迷惑なら捨てて欲しい』 どう反応していいか分からないまま、切れた電話に胸が痛みを覚えた。 幾つもの出来事のなかであんなに哀しかったことは無かったとさえ思う。 未だに、その時のことを思い出すと己の愚かさに頭をぶつけたくなるほどなのだ。 苦い味が残る腕時計はいまも正確に時を刻みながらそこに在る。かけ替えのないものとして。 そんな風に思いを巡らせているうちにどうやら時間が来たようだ。 時計の針が六時を指した途端に周囲がざわわと騒々しくなり始めた。 「さぁ、今日も終わりかぁ」 ざわめきの中、誰れかの声が耳に届く。 それを合図にフロア全体が動き出す。とはいっても、就業中のようなものとはどこか違っていてわずかに浮き足立っているようにも感じるのがこの時間の特徴だなと思う。皆、早く帰りたいのだ。行き先はそれぞれなれど、思うことは一つに違いないと感じる。 「飲みにいくか?」 「お前も好きだなぁ、昨日も行っただろ」 「一人で飯喰っても美味くねぇからな、付き合えよ」 「遠慮しとくわ、カミさんが待ってるからな」 「のろけかよこの野郎。仕方ねぇな、彼女捕まるかなぁ・・・」 「彼女いるなら彼女さそえ、バカ野郎」 机の上を片づけながら聞こえる同僚たちの声。 羨ましいようなそれでいてくだらないとも思える会話の内容。 会いたい人にすぐ会えるのは少し羨ましい。 それを表に出さない程度には自分も大人にはなっている。 会いに行ってみようかと、ふと思った。会いたいと思うだけではなく、それを行動に移すには今日は絶好の日取りだと気づいた。 丁度今日は金曜日。明日とあさっては休みになる。それは想い人も同じじゃないかと。 想い人の住む所は近い。 同じ沿線の高校教師をしているその人は、ここから2駅も電車に乗れば会える場所に住んでいる。 昔から変わらない小さなアパートに、遠い昔夏祭りで釣った金魚とともに暮らしている。 今からいってもそう迷惑にはならない時間の筈だ。 そう思うといてもたっても居られなくなる。 片づけをする手の動きもわずかばかり早くなったような気になる。 『これから行っても良いか』 合間に短く送ったメッセージの返事が待ち遠しい。 時間の進みが急に遅くなったんじゃないかとさえ思える。 どこか上の空で同僚たちに声をかけ、自分もまたフロアをでて廊下に出る。 帰宅を急ぐ仲間たちで人混みとなったエレベータ前に着くと同時に背広のポケットでマートフォンが震た。 『待ってる』 画面に映る文字に自然と頬がゆるむ。 エレベータをまつ時間、乗っている時間、そして駅まで歩く時間 ───── すべてが長く感じる。 恋人がまつアパート近くのコンビニで夕食を買い込み、心なしか早足で路地を行く。 いい加減引っ越せば良いのにと思う程度には古いアパートの階段を上り、見慣れた表札のついたドアをノックする。 「はい」 「よぉ、先生」 ドアの隙間から愛しい人の姿が見える。 頬のゆるみはもう押さえられない。 どちらかと言えば強面と表現される自分のこんなツラは他の奴には見せられないと内心思う。 「はぁ……アンタ、いつまで俺の生徒気分なんだ?」 「おじゃましまっすと……しょうがねぇだろ、昔のクセってやつだよ」 呆れたように自分を見る恋人の部屋。 幾年たっても変わらない。 その中でもやはり一番目を引くのはこれだろう。 「よ、お前達も元気だったか」 90cm以上はあるだろう水槽に泳ぐ、赤いサカナたち。 まだ自分が高校生だった頃、夏祭りで釣ったそれを目の前の恋人に押しつけたのも遠い昔の話。 「サイファー、お茶でいいか?」 「あ、そこで飯かってきたからついでに喰うわ」 「背広、しわになる前にかけておけよ」 「へいへいへい」 「返事は一回だ、サイファー」 キッチンに立っていた恋人が振り返り云う。 その口調はまったくもってあの頃と変わらない。 「わっかりました、せんせー」 「アンタ、変わらないな。久しぶりに会ったっていうのに」 苦笑をしながら差し出されたお茶を受け取り、テーブルにおく。 買っていた弁当を出しながら、笑い返す。 会いたかった恋人に久しぶりに会えた。 それで満たされるという程には達観出来ていない。満足もしていない。 ただ、想いをもてあましていたあの頃とももう違う。 「変わっただろ? キスよりめし優先なんだからよ」 「前言を撤回しよう。アンタ、歳とったな」 「もうガキじゃねぇからな」 「俺にとってはいつまで経っても生徒だったことには変わりない」 飯を食う自分を笑いながら眺める恋人に云う言葉は、あいにく思い浮かばなかった。ただこういう会話を楽しめる程度にはなったのだという事実が少し嬉しかった。 「さっきと云ってることが違うぜ、せんせ」 「忘れろ」 「宿題にしとく」 そう云った自分に向けた表情はこのうえなく綺麗だった。 初めて出会い、掘れた頃となんら変わりなく。 歳を重ねたとしてもなんら劣るものかく。 あのころの記憶のままの人と同じだった。 「アンタに宿題を出しても提出された覚えがないんだがな」 「そうか」 「あぁ、俺がみてきた中でアンタが一番できの悪い生徒だった」 「ひどいな」 「本当のことだ。出来のいい生徒は教師を口説いたりしない。ましてや ───── 特別な感情を抱かせることなんかしない」 さりげなく云われた言葉に、今日会いに来てよかったと心から思った。 /Ende. |