地上に星、天空に海│ヨシダ 様

大昔から語り継がれる寝物語は、決まって夜の悪魔のことだった。
このあたりの子どもたちは、幼いころに「嘘をつく悪い子は、夜の悪魔に連れ去られてしまう」と聞かされて育つ。夜の悪魔は物陰の暗がりに潜んでいて、いつも子どもたちを見張っているという。どんな小さな嘘でも見破って、その晩、寝静まった頃に嘘をついた悪い子を食べてしまうのだと。

夜の悪魔は、かつて月に住んでいて、夜の闇を身にまとった醜悪な姿をしていたという。その恐ろしい姿は見るものを震え上がらせるので、敵さえ近寄ることができなかった。だからこそ、月を守護する悪魔として認められていた。やがて月の女神がその功績を称え、叡智と美貌を与えたので、誰をも魅了する美麗な姿になったという。
悪魔は美しい姿を与えられた恩に報いるべく、月の女神のために戦いに明け暮れるようになった。戦えば戦うほど月の女神に愛されたので、いつしか悪魔は月の化身のように美しくなった。いよいよ月の女神に尽くすべく悪魔が敵と戦っていたある日、地上の魔女がやってきて「お前の姿は仮初であり、争い続ける限り、あの醜い化物のままである」と告げた。
地上の魔女は豊穣の陽光に満ちあふれて美しく、光り輝いていた。地上の魔女の眩い陽光に照らされて、夜の悪魔は元の醜悪な姿を暴かれてしまった。月の女神から与えられたはずの美しい姿は、ただの幻覚であり、偽物であった。
そうして月の女神に騙されていたことを知った夜の悪魔は嘆き悲しみ、地上の魔女と手を取り合って月の女神を討つことにした。

月の女神との戦いは三日三晩に及んだが、ついに討ち果たした。喜びも束の間、月の女神は死の間際、夜の悪魔に呪いをかけた。

呪いあれ。おまえは血を糧とし、飢え、乾き、苦しむ。
呪いあれ。おまえは陽を恐れ、焼かれ、乾き、苦しむ。
呪いあれ。おまえは時を忘れ、焦がれ、生き、死ぬ。

そうして夜の悪魔は呪われてしまった。地上の魔女が「わたしが呪いを解いてみせましょう」と言ったものの呪いは解けず、月の女神の呪いが月を覆う前に地上へと逃げることになった。逃げる途中で朝を迎え、昇りゆく太陽に焼かれかけた夜の悪魔は慌てて影に飛び込んでしまい、地上の魔女を見失ってしまったという。
どうにか生き残った夜の悪魔は、人の生き血を啜って暗闇を這いずり陽の光から逃げ回り、呪いを解くと言ったはずの地上の魔女を探し求めながら、影に潜むようになったという。
そんな言い伝えから、魔女は嘘つきの代名詞となり、夜の悪魔は嘘を嫌って、どんな小さな嘘も見逃さず、嘘つきを食べてしまう存在として語られるようになった。



そういう物語になったはずの夜の悪魔は、暖炉の影の暗闇や森の奥深くの廃城、ではなく、雑居ビルの立ち並ぶ駅裏から徒歩20分の安アパートで頭を抱えていた。真夏の蒸し暑い夜、よれたTシャツから覗く肌は死体のような土気色、髪は乾いて赤茶けた毛先が乱れ、瞳は澄んだ泉のように青かったが、白目が真っ赤に充血していた。およそ2日間ほど眠っていない人間のような見てくれをしていた。
見るものを震え上がらせるほど醜悪な姿ではないが、月の化身と称えられるほど美しいとは言いがたかった。しかしそれでも、整った顔立ちであることは間違いなかった。

東側の壁一面に作り付けられたクローゼットは部屋の大きさに対して過剰なほどだったが、伝承に違わず太陽の光には弱い悪魔を守る寝床としては優秀だった。一見すればルーバータイプの扉は、万が一にも陽の差し込まぬように内側に板を打ち付けられている。それでも夜目の利く悪魔には、クローゼットの中の荒れ放題の有り様が見えている。
クローゼットの奥行きに幅を合わせて作らせた脚の低いステージベッドこそ動いていないが、申し訳程度に乗せただけのマットレスは盛大に斜めになって、ドアと奥の壁に押し付けられた角が潰れて奇妙なひし形になっている。きちんと被っていたはずのブランケットも、マットレスと壁との隙間に滑り落ちて用をなしていない。
しばらく寝ぼけたような顔で落ちたブランケットを眺めていた夜の悪魔は、長々と溜息をついて、後ろ頭をかきむしった。

「もう限界だ」

夜の悪魔は、ひどく腹を空かせていた。

実のところ、この悪魔は月から逃げ延びた夜の悪魔の末裔、の末裔という微妙なところだった。先祖がついに地上の魔女と再会できたとは伝わっていない。そもそもでいうなら、地上の魔女が本当に存在したのかも分からないのだ。もしそうなら、こんな呪いはとうの昔に解かれているはずだった。
分からないことのほうが多いが、確認できている事実は3つある。例の呪いの言葉のとおりに、食事は地上の動物の血液であること、直射日光を浴びると肌が焼け爛れること。それと寿命は永遠ではないこと。

元は人の生き血でなければ生きられぬと思われていたものの、いつの時代か、人が流行病で数を減らしたことがあった。そのときに人の生き血にありつけずに貧窮した悪魔の誰かが、やむを得ず家畜として人の子の家の庭先に放たれていた鶏に手を出した。すると空腹は一時的ながら満たされることが分かり、みな人間以外の動物へと牙を向けた。
なにしろ人を狩るというのは手間がかかる。比べて家畜や小動物なら抵抗も知れていて危険も少ない。なにより、当時はどこにでもいた。
悪魔たちは、やがて人の生き血を贅沢品として、小動物を主な食事とした。腹が減るのは早いが、数には困らない。人を襲うよりずっと手間もなく済む。だったら人を襲うより小動物を狙おうではないか。そんな認識が定まってから、かれこれ500年経っている。

この寝相の悪い悪魔も、普段は近くの小さな森まで夜な夜な出向いてキツネやウサギを狩っていた。たまにはネズミや小鳥のときもあるが、滅多には飢えと乾きに苦しむことはなかった。最近までは。
狩場にしていた森が再開発されることとなり、公園や住宅地へと変貌するべく開拓が始まったのは去年の秋の終わりのことだ。年が明けた今年の春、測量や生態調査が終わって、木々の伐採が始まってしまった。森にいた動物たちは出入りする人間や重機の音に怯えて逃げ出して姿を消しつつある。しかも森は立入禁止のバリケードで囲まれ、警備員まで立っている。忍び込むこと自体は造作もないのだが、行ったところで動物たちは見つからないだろう。

しかたなく別の狩場を探してはいるが、住処にしている場所が悪かった。大都市のベッドタウンとして機能している小規模な街で、住民の大半は昼間に仕事へ出かけてしまう閑静な場所だ。昼間に眠る悪魔にとっては好都合なので居を構えたが、まさかあれほど数を減らした人が、今度は増えすぎで餌場を失うとは考えが及ばなかった。
生まれついたときから人の血を狙うことをせずに長らく生きてきたので、いまさら人を襲おうなどとは思わないが、それにしても困ったことになっていた。

森が閉鎖されて3ヶ月、天井裏を走り回っていたネズミで食いつないできたが、さすがにネズミも増えるのが間に合っていないらしい。なにしろ彼らは小さく、悪魔の腹を満たすには数がいるのだ。忍耐を重ねて少しずつ捕まえていたが、そろそろ限界だった。悪魔の空腹は、のっぴきならないところまで達しつつあった。魂に刻まれた月の女神の呪いの言葉が、頭のなかで響く。飢え、乾き、苦しむ。

200余年を生きてきて、ここまで飢え、乾きを実感するのは初めてだった。乾き始めていると自覚してからたったの数日で、苦悶している。起きている夜間は自制できる程度とはいえ、意識のない眠っている間は狭いクローゼットの中をもがき苦しんで転げ回っているらしい。早々に対処しなければ、勢い余ってクローゼットを破壊しかねない。
なんとしても、飢えと乾きを癒す必要があった。ただ、手段がなかった。


悪魔とて無為に3ヶ月を過ごしていたわけではない。新しい狩場を見つけ次第、住み慣れた街を離れる覚悟で周囲を探索していた。
だが近隣を彷徨って分かったことは、居着いた頃はまだ山林も森も街の身近にあったのだが、知らぬ間に大半が増えすぎた人を収容するべく再開発の波に飲まれて消えていたことと、主な狩場にしていたあの森が最後の楽園であったという事実だけだ。
夏の夜は長いようで短い。日没から夜明けまでの行動を許されている夜間に可能な限り遠くまで行ってみたが、どこもかしこもビルや住宅街でひしめき合っていて、山林も森も、そもそも動物がいそうな緑地はなかった。
途方に暮れる思いであったが、刻々と強まる飢えと乾きに苦しみが増している自覚があるだけに、立ち止まることなく解決策を見つけなければならない。

最終手段として人の生き血を狙うことも考えたが、法の行き渡っていなかった中世ならまだしも、現代においては人を襲うことは相当なリスクを伴う。困り果てたときに限って、ねぐらに帰りゆくカラスの群れなどがやけに目につく。昔はああいうカラスを追っていけば森にたどり着いたが、昨今のカラスは森より街中の廃ビルなどに住んでいるので、あてにならない。

飢えと乾きの苦しみに足をもつれさせながら、血を求めて彷徨い出た宵の街に人影は少ない。最初の帰宅ラッシュは終わり、電車に入り切らずに数本遅らせてきたらしい疲れた顔のサラリーマンが、茫洋とした顔でスーツのジャケットを片手に駅から吐き出されてくる程度だ。
香しい、赤く、熱い、生きた血の匂いがする。追い詰められた悪魔にとって、これまで気づきもしなかったものだ。原初はこれを第一にして唯一の食とし、命を繋いできた歴史がある。

そうと意識すれば、人がみな暖かな血袋に見えてくる。急激な飢えと乾きに、理性が揺らぐ。こんな人目にある場所で、蛮行に及ぶわけにはいかないと思うのに、吸い寄せられる。
ふらつく足はまっすぐには進まず、視野は行き交う人々を追って泳ぎ、意識は散漫だった。

なにかにぶつかった、と気づいた時には、激しい痛みに襲われていた。なにが起きたか考える間もなかった。次々に痛みが襲い、訳も分からず逃げようとすれば、半袖のTシャツ1枚でむき出しの腕を強く掴まれていた。

「痛い! 熱い!」
「おい、大丈夫かよ、そんなに強く当たってないぜ」

人の血の巡る鼓動の音が脳を叩く中、どこか遠いところで声がした。そのうちのひとつが自分の悲鳴だと気づいた瞬間、はっと我に返った。そして明確になった痛みに耐えきれず悲鳴を上げれば、掴まれていた腕が開放されたのが分かった。
転げるように距離を取って目を開くと、男が唖然として悪魔と自分の手を見比べて、なんだこれは、と言った。

「燃えた……? いや、そんなわけねえな、火傷してんぞ」
「な、なに、なんだ、なにが」
「落ち着け、落ち着けって。いいから腕を出せ、なんかおかしいぞ」
「やめろ、なんでもない、触らないでくれ!」
「わかった、分かったよ、ほら、触らねえって。痴漢みてえに言うな」
「う、くそ……最悪だ」
「助けてやろうってのに、恩知らずな野郎だな!」
「放っておけッ」

伸ばされた手を弾けば、爪がかすめて男の手の甲が裂けた。悪魔の爪は薄く鋭い。ましてこの数日は余裕もなく手入れもしていなかった。鋭利な刃物で切りつけられたように開いた傷口から、血が流れる。
血だ。血だ! 人の生き血だ……。





目が覚めると、ポスターが目に飛び込んできた。およそ20年ほど前に封切られて一時期は話題になったが、今ではもうコアなファンしか覚えていないような映画のポスターだ。映画通の間では「あの時代にこれだけ渾身の全編吹き替えで、かえって違和感がなかったところの技術点は高い」と語られる類の低予算映画。なぜ悪魔がそれを知っているかといえば、その映画のテーマが夜の悪魔と地上の魔女の悲恋で、興味本位で映画館に観に行ったからだ。たしか月の女神役だった女優が新人の美少女で、絹のような黒髪が美しかったことだけ鮮明に覚えている。

ポスターの煽り文句を読みながら、それでなんでこんなポスターと対面しているんだ、と思った。煽り文句は「絵本とは違う、本当の結末」とある。同族でさえ知らない本当の結末を知っているとは、この脚本家はさぞや高名な歴史家に違いない。そう思ってレイトショーを見に行ったが、案の定の出来だったので、帰り道に鼻で笑ってしまったものだ。分かっていて観に行った。あの頃はまだ飢えも乾きも知らなかった。

「……そういえば」

飢えも乾きも、治まっている。

「起きたかよ」

聞こえた声に飛び起きれば、駅裏ですれ違いざまにぶつかった男が、呆れた顔をして立っていた。時刻は真夜中、しかし夜明けは近づいてきている。
警戒心もあらわに身構えると、男は肩をすくめて苦笑いしてみせた。

「ぶっ倒れたのを運んでやったのに、礼のひとつもなしか? 恩知らず野郎め」
「そ、れは、助かった……」
「ワケアリっぽいからよ、ケーサツもビョーインも連絡してないぜ」
「それは本当に助かる」
「いきなり燃えたかと思えば、噛み付いて来やがって。そしたら綺麗さっぱり火傷が治ってんじゃねえか。さすがに驚いた」
「あ、いや、俺は、そんな……覚えてない」
「はあ?」
「手を、切って悪かった……でも、そこから……さっぱり覚えていない」
「なんッだそりゃ!」

なんだと言われても覚えていない。ぶつかって、ひどく痛くて熱くて、なにが起きたかも分からないうちに赤い血を見て、それきりだ。悪魔といえども、気を失うことはある。不死身でもなければ怪我もするし腹も減る。そういう呪いがかかっている。
改めて男を見れば、切ってしまった右手に包帯を巻きつけている。右が利き手なのだろう、お世辞にも上手い巻き方ではなかった。無関係な人間を巻き込んでしまった罪悪感を抱くのは、いかにも悪魔には不似合いなことだが、しかし人に混じって暮らしてきた期間が長いので、それなりに感化されることはある。

詫びに巻き直そうかと提案しかけて、お互いに全く素性を知らないことに思い至る。かといって「実は夜の悪魔の末裔です」などと名乗れるわけもない。逡巡して、ふと目線を彷徨わせれば、ベッドの上だと気づいた。間違いなくお人好しの男のベッドだろう。そしてここは男の住んでいる部屋だ。
急に気まずくなって、黙ったままベッドを降りると、また男が苦笑いして肩をすくめた。

「今さら遠慮か? 殊勝なことだな。恩知らずクン」
「恩知らずはやめろ」
「なら名前教えろよ」
「……スコール」
「スコール。スコールか……そりゃまた、随分と湿っぽい名前だ」
「あんたは。人の名前にケチつけられるような立派な名前なのか?」
「いいや、まさか。至って普通の名前だ。サイファーっていう、特徴のない名前だな」

夜の悪魔は、人の子の名前を口の中で呟いて、どこかで聞いた名前だと思った。200年も生きていれば、そういう名前と関わったこともあるのかもしれない。長い間に忘れていってしまうので、いつの誰かは分からないが。

夜の悪魔は代々使い魔を身の内に飼っていて、これらの餌は記憶としている。夜の悪魔が永い時をかけて溜め込む膨大な記憶を糧とし、その力を振るう。餌として与えられた記憶が大事なものであればあるほど、その力は増す。スコールは生きるために、いくつもの大事な記憶を食わせてきた。
生まれた頃の記憶や、幼かった頃の記憶、姉がいたこと、仲間がいたこと。今では記録だ。映像や感触や温度も感情も伴わない、文字列だけの文章として記録されている。幸せだったことを忘れてしまうけれど、同時に、辛かったことも忘れられる。

スコールは惜しみなく記憶を与えてきた。だからきっと、似たような名前の人の子の記憶も使い魔に食わせてしまったのだろう。文字列だけになった記録は時折に思い出してやらねば、そのまま遠く消え去ってしまう。きっといつか、スコールと言葉を交わしたことのある、たくさんの人たちのことを忘れてしまったことさえ忘れてしまうのだ。そして二度とは思い出せない。

会ったことはないはずだ、と数少ない記憶と記録を参照して確認してから、スコールは警戒を解いた。使い魔は日夜スコールの記憶を染み入るように喰みながら力を蓄えている。そうでなくとも悪魔と呼ばれるだけの地力はある。恐れることはなかった。肩の力を抜いて敵意のない風情で、スコールは寝乱れているであろう髪を撫でつけた。寝相がいい方だとは自分でも思ってはいない。

少なからず恥じる心がないわけでもないので気まずく思いつつ、このまま穏便に礼だけ言って去るべきタイミングを図るも、切り出し方が分からなかった。ここ数十年は人との関わりを最小限にしていたので、すっかり会話を繋ぐ方法が分からない。昔はまだ人と関わらねば生活できない環境だったのだが、ここ数十年で世間は冷淡になり疎遠のままでも暮らせるようになったので、それに甘んじてしまった。
今のアパートへ偽の身分で部屋を借りる時にも事務的な会話をいくつか交わしただけで済んだし、家賃の支払いにしろ先祖代々が積み上げてきた遺産を切り売りすれば十分で、悠々自適なものだった。今さら人間社会に完全に馴染んで生きろと言われても難しい。

向こうから「出て行け」とでも言われないかと期待するも、そんなことさえ思いつかないのか、起きたんなら腹減ってるだろ、などと悠長なことを聞いてくるので、いよいよ立ち去るタイミングが掴めなかった。夜明けはまだ少し先だが、肌に弱く電流の走るような太陽の気配だけは感じる。長居して焼け死ぬことになる前に、あのクローゼットに帰らねばならない。あの愛しき暗闇に!

「あの、助かった」
「思うんなら、ちょっと手伝えよ」
「手伝う?」
「こっちは利き手大怪我して困ってんだぜ、その詫び分は働いてもらわねえとな」
「俺のせいなのか」
「お前が噛み付いてズタボロになったんだから、お前のせいだろ」

空腹だった。血を見た。噛み付いた。なるほど。悪魔本来の所業だ。スコールは喉の奥で唸ってから、とりあえず夜明けまでに帰るのに必要なことなら、少しばかり手伝って満足してもらうしかないのだろうと判断した。それさえ終えれば、じゃあこれでと言えるはずだった。

「……なにすればいい?」
「コーヒー淹れてくれよ」
「わかった」





存外素直に動き出すスコールを見て、サイファーはちょっと素直すぎるんじゃないかと危ぶんだ。
つい3時間前まで、死にそうな顔をしていたとは思えなかった。

深夜0時を回って遊び歩くのにも飽きて帰る途中、駅の地下から出てみれば、ふらふらと足取りのおぼつかない若い男がいるのは遠くからでも見えていた。時間帯と繁華街が近いことを思って、酔っぱらいかと思っていたが、どうも様子がおかしいので近寄ったのだ。すると転びかけるのを目前にして、思わず手が出た。腕を掴んで引き上げようとすれば、手のひらに一瞬、強烈な熱が走った。
肉の焦げる醜悪な臭いと、灰がかった煙がかすかに立ち上って、驚いて手を離せば男は痛いと悲鳴を上げて地面に崩れ落ちた。もしかすると心臓かなにかに病気を持っていて、なんらかの医療器具を腕につけていたのが故障したのかと思ったが、それらしいものは見えない。

具合が悪そうなことに変わりはないので、ひとつ確かめて救急車でも呼んでやろうかと親切心を出してみれば混乱したように触るなと喚く。その声は弱くか細く、捨てられた子猫のほうがまだ元気だと思われるような力の無さだった。いよいよ重篤な病気で発作を起こしたかと思ったが、長い前髪の隙間からちらりと覗いた瞳は炯々と街灯の光を反射して赤く光っていた。
どうすべきか迷ったが、駅裏とはいえ往来の真ん中で座り込むのは注目を集めすぎる。移動を提案しようと動いたのをどう見たものか、放っておけと手を弾かれて、サイファーは正直、かなり頭にきた。
見捨てて立ち去ろうとした、その瞬間だった。

「血だ……」

蚊の鳴くような声がして、気づくと弾かれた手を掴みかかられ、自分でもそうと知らず血の滲んだ傷口があることを認識したときには、怪我した右手に噛みつかれていた。相当な力で歯を立てられて、骨を折られるのではないかという痛みに慌てて引き剥がそうとしたが、これが離れない。
恐ろしいほどの力で手と腕を捕まれ、状況を理解するより先、ぶちり、と嫌な音がして手の甲の薄い皮膚が裂けた。溢れ出る血の温度に危機感を抱いて全力で振り払おうとするが、びくともしないのには参った。
下手に暴れて傷口を広げられるのも恐ろしいので、サイファーは声を殺して耐えることにした。近くを通り過ぎる人々には、酔った友人を介抱しているようにしか思われていないのだろう、助けは期待できなかった。

だからといって一方的に耐えるばかりでもなかった。スコールの頭を空いている左手で掴んで、どうにか離れないか試すくらいのことはした。微塵も離れなかったので結果的には徒労だったが、骨を噛み砕かれなかっただけ無駄ではなかったと信じたい。
しばらく攻防を繰り広げて、5分後にスコールがようやく顎の力を緩めた。サイファーは脂汗を流しながら右手を救出して、長々と詰めていた息を吐いた。明らかに悲惨なことになっているだろう傷口を一瞬だけ確認して、ぐずぐずの歯型を見た時点でそれ以上の深追いはやめた。気が滅入るだけだ。

なにはともあれ、こんな暴挙を黙認して放っておけるほどサイファーの器は大きくもなければ気も長くない。怒鳴りつけるなり殴りつけるなり警察に突き出すなり、気の済むまで徹底的にやってやろうとスコールを見やれば、しなしなと力なく地面に倒れ伏していくところだった。
額を地面にこすって謝る気があるような倒れ方だったらサイファーも見送ったが、完全に気を失った人の倒れ方であったので、さすがに首根っこを捕まえるしかなかった。

駅裏のロータリーの真ん中には噴水がある。そこに投げ入れて強制的に目覚めさせようかとも思うが、火傷をしている怪我人であるし、サイファーもたった今から怪我人だった。
ロータリーで待ちぼうけている暇そうなタクシーのひとつでも拾って病院に行こうか迷いながらスコールの腕を見れば、火傷はすっかり消えていた。襟ぐりの伸びたTシャツは薄っぺらで、袖口から伸びる痩せた腕は白く、火傷していたはずの場所はバラ色の跡が薄く残っているだけだった。

「消えてる? さっきまで……見間違いか?」

どういうことだと訝しむが、問いただしたい当の本人は完全に眠っていた。道端に捨て置くには人通りが少なく、タクシー運転手の目線は金のなさそうな若者よりもスーツ姿のサラリーマンを追っている。厄介事は御免だとでも言いたげな態度だった。
救急車を呼ぶことも考えた。なにか持病があって、と。それなら薬を持ち歩いているだろうが、目を閉じて動かない男の格好は、どう見たって財布すら持っていなさそうだった。

真夏の湿度がわだかまる夜、洗いざらしの白いTシャツは薄っぺらで、汗もかかずに乾いていた。くたびれたジーンズは柔らかく、膝裏に皺の跡が刻まれている。幅広のベルトはきつく締め上げられ、やたら細い腰に必死になってジーンズを引き止めているようにも見えた。ポケットは平らで小銭も入っている様子はなく、カードさえ見当たらなかった。
唯一、左手の中指にはりついた銀の指輪だけが、なにかを伝えようとしていた。彫り込まれた獅子には大きな翼が翻って、誰かに吠え立てているのが、やけに目に焼き付いた。

変に死なれて翌朝のローカルニュースで「駅裏に若い男の死体が」などと騒がれても実に寝覚めの悪いことだし、確実に疑われる。人を殺すほど落ちぶれてはいないつもりだが、痛くもない腹を探られたくない。
警察に関わるくらいなら、正体不明の痩せた男の目覚めを待つほうが得策だった。後ろ暗いことはなにもないが、派遣のフリーターという名目上の肩書だけを読まれると、どうにも信用が低いらしい。他に説明できる職業でもないので反論しづらいのだ。
もはやタクシーを使う気にもならず、ほとんど背負う格好で担ぎ上げて岐路を歩いた。背中の眠る男はひやりと冷たく、夏の夜には心地よかった。





連れ帰ってベッドに放り投げて血の乾いてきた右手を消毒していれば、やけに幼い声で「おねえちゃん」などと泣き言が聞こえてきたり、どうにか包帯を巻き終えて風呂に入る方法を悩んでいれば、ぐずぐずと「いかないで」とタオルケットを蹴り落とす音が聞こえたり、まあ落ち着かなかった。

結局、包帯の上にラップを巻きつけてシャワーを浴びて、まんじりともせず部屋の中をおざなりに片付けてみたり、読みかけだった雑誌をめくって目覚めを待った。夏の夜のしじまに響く遠い虫の鳴き声と、かすかに魘される声と、寝返りをうつ衣擦れの音だけが部屋を支配していた。家主なのに気配を殺して、街灯の光が忍び込む仄明るい部屋の片隅を見守っていた。
気もそぞろにページの進まない雑誌を投げ捨て、コーヒーでも淹れようかと思ったが利き手が使えず不便して諦めて、あとはもう枕元に立って、これはなんなのだろうかと考えながら、壁に貼った古い映画のポスターを眺めるしかなかった。

ポスターは、幼いころに土曜の昼間の再放送で見て、わけもなく気に入った映画のものだ。ストーリーは分かりやすいにも程があるお涙頂戴の悲恋だったが、映像がひどく美しかった。今でもたまに見返しては、月の女神が美しい涙を一筋流して消えゆくシーンを繰り返し再生するほど気に入っている。
ありきたりな物語に古臭い演出ばかりなので、批評家たちは揃って辛口な感想を書き連ねているが、構わなかった。そんなにも物語を重視するなら、そういう映画を見ればいいのだ。この映画は、淡い色調の中に溶ける映像美を堪能するための映画なのだ。

ポスターは日に焼けて色あせている。いつかは真っ白になるだろう。きっと四角に壁が白く切り取られて、剥がした後でも克明に思い出せるほどに見てきた。惜しむものでもないので、そのままにしている。他にも版の違うポスターを持っていて、いつ替えようかと思ったまま何年も過ぎているような、見飽きたポスターだ。
そんなポスターの端に、スコールの手が触れている。寝返りを打った際に手の置き所がそこになったのだろう。地上の魔女が手を伸ばすところへ、指先を重ねている。

そうか、と不意に思った時、スコールが、この時まだ正体不明の痩せた男が、薄らと目を開けた。存外、灰がかった青い目をしていた。寝起き特有の意識の伴わない目線の動きが、するりとポスターを撫でた。そして細められて懐かしむような顔をして、瞬きひとつ後、青い目の奥から意識が立ち上がったのが分かった。
驚いたような顔をして、不明瞭になにか言った。聞き取れはしなかったが、つまらないことを言ったのだろう。サイファーが様子を見ながら起きたかと言えば、まるで子猫のように飛び上がって毛を逆立てて威嚇するので、笑ってしまうというものだ。
あれだけ熟睡して寝言までこぼしておいて、いまさら警戒されても怖くもなんともない。

お互いに名乗って名前を聞いてもピンとこないが、向こうはなにか思うところがあるのか首を傾げて、ひそやかに呟いて確認している。サイファーはおかまいなしに話を進めた。そうでもしなければ、相手はどうやらマイペースらしく、なにも解決しなさそうだったからだ。
冗談交じりに淹れ損なったコーヒーを頼めば、辿々しい足取りでキッチンへ立ち、キョロキョロ見回して必要なものを集める様子は明らかに不安げに焦っていて、見ている方が不安になりそうだった。また火傷をしないか、と。

「そういえば、火傷、あれなんだったんだ」
「やけど?」
「腕……ああそうか、覚えてねぇんだよな」
「少なくとも、倒れる前までは火傷なんかしていなかった」
「俺が掴んだら、いきなり燃えたんだよ」
「燃えたって言われても……普通は燃えないだろ」
「そりゃ俺が聞きてえ」

人体発火という現象があるとかないとか言われているが、スコールは陽に当たらない限りはそんなことは起きないし、今は夜だ。サイファーにしたってそんなこと起こらないと思っている方だし、双方にとっての謎となった。なにせ背負って帰ったって、なにも起きなかったのだ。腕を掴んだくらいで燃えていたら、今頃スコールは炭になっていなければならない。
スコールが白々しくコーヒーに砂糖とミルクは入れるか聞いて話題を変えると、サイファーも深追いしたところで益もないと判断して、いらないと軽く答えた。

「にしても、寝不足だったとかか。急に倒れたろ」
「いや……ああ、まあ、そんなところ……」
「歯切れが悪いな。隠し事が下手すぎる」
「うるさいな、だったら聞くな」
「でもよ、考えてみろよ。こっちは利き手やられて不便すんだぜ、治るまで。治療費の請求先くらいは聞く権利あるだろ」
「……あとで払う」
「冗談も通じねえのか!」

サイファーが大笑いするので、スコールは急に恥ずかしくなった。とにかくコーヒーは淹れたのだし、慰謝料とまでは言わないが心付けくらいは後日渡すことにして、とっとと帰りたくなった。いずれにせよ夜明けは近く、あの愛しの安アパートまでの距離も分からない。
慌てて帰る途中に陽が昇ってしまったら、スコールには為す術もないのだ。ほんの一瞬でも早く帰らねばならなかった。

「助けてもらった礼は言うし、そのうち金も振り込む。口座だけ教えてくれ、それで帰るから」
「そういやお前、家どこだ」
「そんなことどうでもいいだろ」
「よかねえよ、始発もまだだぜ、どうやって帰るつもりだよ」
「そもそも、ここがどこなんだ」
「俺んち。駅から北に徒歩20分くらい」
「……北に?」
「北に」
「それは……近いな。歩いて帰れると思う」

大変近い。スコールの安アパートも、駅から北に20分程度の立地だった。だいたいの方角が合っているなら、それほど離れていないだろう。午前4時、夜明け直前、まだ間に合う。
ちょっとした希望にスコールは元気が出るような気持ちになって、すいすいと窓際に歩み寄って閉め切ったブラインドの隙間に指を差し入れ、少し押し下げて外を見た。
表の通りの風景を見て、首を傾げて、ブラインドから一度は指を離したが、またひとつ首を傾げて、もう一度ブラインドに顔を寄せた。サイファーは、近いと言っても通り1本違うだけで光景も変わるものだし見知らぬ場所なのだろうかと思った。スコールは不思議そうに、ここの住所は、と言う。

「ノース・ブロック26丁目、フィッシャーマンズ・ストリート91番地」
「……26丁目? 91番地?」
「なんだよ、知らねえ通りか?」
「ち、近すぎる」
「は?」
「となり……」
「はあ?」
「俺の家、ま、真横だ……」
「……なんだそりゃ!」

近いどころではなかった事実に、スコールはブラインドを引き上げて窓を押し開き、身を乗り出して右隣を見た。赤レンガの外壁に、白い窓枠。やはり隣だった。1階だけスコールの部屋のほうが上にあるらしい。
窓枠から落ちそうなスコールの背中に、偶然ってのはあるんだな、とサイファーは声をかけた。聞こえているのかいないのか、スコールはあちこち見回していた。
しばらくして満足したのか、窓を締めてブラインドを下ろして振り向き、肩をすくめるスコールはきょとんとした顔をしていた。意外に幼い表情をするので、サイファーは、もしかしてとんでもなく若いのかとさえ思った。駅裏でパッと見た時は、同世代だと思っていた。

「近すぎて拍子抜けした」
「お前んち、どっちの隣だ。赤レンガのほう? 白タイル?」
「赤レンガ」
「ディンのババアが住んでるほうか!」
「さあ、あまり住人のことは知らない」
「1階の左側の部屋に住んでて、いっつも窓から外を見てやがる。それで通りかかったのに片っ端から声をかけるお節介な婆さんだ。有名人だろうが」
「生活時間帯が違うから、会ったことがないんだ」
「そりゃ幸運なこった」

そこから通り向かいのアパートの大家族のことや2ブロック先のパン屋の話になり、ご近所の話題でひとしきり時間が経って午前5時近くなり、さすがにスコールは身の危険が差し迫っていることもあって、またそのうち謝礼を持って来ると帰宅を切り出した。切羽詰まっていたので、前後の話はかなり繋がっていなかったが、サイファーは気にする様子もなかった。

「階段登ってる最中にぶっ倒れんなよ」
「うるさい」
「じゃあな、スコール」

ペンキを重ねすぎたドアを押し開けて、部屋を出た。薄い鉄板でできたドアは、こんな夜明けにも騒々しい音を立てる。しばらく立ち止まっていたが、背後から鍵をかける音は聞こえなかった。一歩踏み出して帰り道を急ぎ始めたスコールは、今度はもう立ち止まらなかった。





それから数日、スコールはやはり新しい餌場を見つけられずにいたが、どういうわけか特に飢えも乾きもなく過ごしていた。そして、どう考えてもサイファーの手に噛み付いたのは事実で生き血をすすったのだ、という事実を苦悶の末に認めた。人を襲うほど飢えていたということに第一の苦悶があり、見境なく通りかかった人間を襲うほどの獣性が自分にあるということが第二の苦悶であり、そして最後にはどうあっても自分が夜の悪魔の末裔であるということが第三にして最大の苦悶であった。
およそ200余年、点々と居住を移しながら薄暗がりを歩いてきて、こんなことは初めてだった。人の血を飲んだというショックは、スコール自身にとって思いのほか大きかった。

認めてしまったからには、人の血の豊かさというものが実感されて、飢えよりも切なく悲しい気持ちにもなっていた。人の血を知らぬまま死んでいく悪魔は少ないが、時世から今後はそういう悪魔のほうが増えていくだろうと思われていた。かつて共に過ごしていた悪魔たちは、人の血に頼らない生き方を見つけなくてはならないのだと話し合っていた。
スコールはそういう環境で独り立ちするまで過ごしていたので、そういうものなのだと思っていた。だから人の血を求めることなく今日まで生きていた。あの頃に生活を共にして過ごした悪魔たちは、恐らくもう寿命を迎えて女神の呪縛から逃れたはずだ。悪魔は少しずつ数を減らしており、スコールも子を成し増やすつもりはない。こんな生き物は、絶えればいいと思っている。
それなのに、こんな晩年に差し掛かろうというところで、人の血を知ってしまった。

思うとおりには生きられない。望んだとおりにはならない。夜の悪魔は血を求めて夜を彷徨う獣だ。結局、野蛮な生き物であり、正しく化物なのだ。その事実が重くのしかかって、スコールを打ちのめした。
意気消沈するスコールを夜に置き去りにして太陽は頭上を巡っていて、サイファーのところに詫びの品を持っていこうと思いつつも時間だけが過ぎていた。このまま社交辞令だったことにして流してしまおうかとさえ思いつつ、日持ちしない焼き菓子がテーブルの上に放置されていた。

焼き菓子の消費期限がいよいよ翌日に差し迫っていた日の夜9時前、スコールが起き出してクローゼットから出てきたところに、呼び鈴が鳴った。こんな時間に訪問者なんて新聞か保険の勧誘にしても非常識なので、スコールは一度は無視を決め込んだ。ところが諦めが悪いのか呼び鈴が連打されて、近所迷惑になるほど鳴らされる。
あまり放置して近所迷惑だとクレームを入れられてもたまらないので、不承不承ながら玄関に向かうと、ちょうどノックというよりドアを殴りつけるような音がし始めたので慌てて駆け寄った。

「待て、うるさい、誰だ」
「なんだよ起きてんじゃねえか、開けてくれ」
「サイファー?」
「なあ、開けろって」
「開けるから、ちょっと待て……」

部屋を片付けたい欲求が沸いたが、あまり放置すると激しいドアノックが再開される予感しかしない。スコールは諦めてロックを外してドアを引き開け、やっぱりまたドアノックしようと左手を握りしめていたサイファーを見咎めて、中へ招き入れた。幸いにして同階の人々はまだ帰っていないのか、それとも文句を言う前だったのか静かなままだった。
ほっと息を吐いてドアロックをかけ直し、無遠慮に部屋を眺め回すサイファーの背中を小突いてリビングの唯一のテーブルセットを指し示した。

「適当に座ってくれ。といっても、椅子は2つでソファはない」
「見りゃ分かる。ずいぶんと質素な暮らしだな」
「放っておいてくれ。ミニマリストなんだ」
「へえ、それでベッドもなし?」
「……毎朝きちんと片付けてるんだ。それで、なにか用事か」
「ああそうだった、右手が治ってきたし仕事もねえし、暇だったんで様子見に来たのさ」
「隣だとは言ったが、部屋は教えてなかったよな?」
「世話焼きディンばあさんにかかれば、お前の部屋なんか3秒で分かる」

日中に昼の買い出しに出たときにディン夫人に捕まったのでついでに聞いたのだという。ご婦人方の情報網は侮れない。挨拶さえしたことがない人間の部屋番号どころか、何時に部屋の電気が点くかまでご存知だったらしい。それでサイファーは気兼ねなくこんな時間に訪問したというわけだった。
スコールは二の句も継げずに口を閉ざし、得体のしれぬ恐怖から逃れるようにキッチンへ向かい、濃いめのコーヒーを淹れた。ついでにサイファーの分も。血を飲まねば生きてはいけないが、嗜好品としての普通の食事も楽しむことはある。スコールは紅茶のほうが好きなのだが、インスタントコーヒーの手軽さに負けるときもある。

「手、治ったのか」

熱いティーカップを渡しながら問えば、差し出された右手の包帯は取れていた。手の甲には大振りのガーゼがサージカルテープで止められ、血の滲んだ様子もない。

「化膿もせずに順調に回復中だ」
「それはよかった」
「で、お前はどうかと思ってな」
「おかげさまで、すごぶる調子いい」
「そいつは何よりだな、お互い」

やっと椅子に腰掛けたサイファーを見て、スコールはテーブルの上に放りっぱなしだった焼き菓子の包装を破り、適当に差し出した。中身を見て手を伸ばすサイファーはまったく昔からの友人か、それとも近頃になって久しぶりに会った同級生のような態度だった。スコールも気を張るだけ無駄な相手だと早々に見切りをつけて、クッキーやフィナンシェが減っていくのを眺めた。

なんとも穏やかな時間だった。会話が弾むわけでもなかったが、時折サイファーが思い出したみたいに、部屋に緑がないとかサボテンは手がかからないとか言った。それでスコールは昔サボテンに水をやりすぎて失敗した話をして、サイファーも同じことをしたからリベンジしているのだと言い、そんな実りのないことで笑いあった。

およそスコールの200余年の中でも、こんな穏やかな時間を過ごせるのは恵まれたことだと思った。ほんの1時間でも。きっとこの記憶も数年後には頭の中の使い魔に食われて記録となって、そして記録も失われるだろう。寂しく思うことはある。忘れたくないと思うこともある。だからこそ使い魔は気持ちごと食べてしまうのだ。クッキーみたいに気軽に摘み取る。
永い悪魔の寿命において、死の眠りは悪魔にとって希望だ。その時だけが、月の女神の呪いから解放される唯一の方法だからだ。その時に、この恵まれた時間のことを思い出せないのは、すこし寂しい気もした。

「ところで、こんな時間に出歩いていいのか? 平日なのに」
「仕事があるときは続くし、ない時はずっと休みってやつでな。今は閑散期、仕事も金もなし、あるのは時間だけってね」
「それで暇つぶしに?」
「暇つぶしに」
「俺はそんなに暇じゃないぞ」
「へえ、夜の仕事か」
「……そんな感じだな、言われてみると」
「なんだそりゃ」
「他に言い様がないんだ」

肩をすくめるスコールに、サイファーはなにか興味を惹かれたような表情を浮かべたが、なにも言わなかった。スコールにしたって聞かれても「夜の悪魔なので夜な夜なごはんを探しています」なんて言えない。言葉を濁したままで不誠実なのは理解しているが、どうせそのうち掻き消える縁ならば気に病まないことにした。
他愛ない会話の糸口を探して目線を泳がせれば、分厚いカーテンの向こうに追いやられた夜が、じっとりと密度を増しつつあるのが分かる。夜の湿った空気はまだ昼間の熱気をはらんでいるが、数週間もすれば秋になって数カ月後には冬になって、肺の底まで凍てつくような刺々しい空気になるだろう。
今が限りと虫達が恋人を探して狼狽える声がする。声高に愛を叫ぶ鳴き声に応える相手がないならば、自らの一生が無駄になると糾弾しているかのような、甲高い音が通りの石畳に反響している。

意識が外に出かけてしまったスコールの横顔を眺めてから、サイファーは手元に目線を落とした。右手の甲の傷口はかさぶたが乾いて再生中で、あと1週間もすれば治ったと言える状態になるだろう。ガーゼを貼り替える時に見た、あの形がなんであるかを考えさえしなければ。
手に刻まれていた歯型は、歯科医院にある見本みたいに小粒な歯先が点々と並んだ中に、2つだけ大穴が空いていた。およそ犬歯の位置に。壁に貼ったポスターを見て、奇妙な閃きがあって、そうなのかと思ったりもしているが、どう言えばいいか分からなかった。どうも穏便に伝える方法が思いつかない。

いきなり「夜の悪魔なのか」と言うのは、どうもおかしい。そして自分の精神が疑われる。あるいは思春期が終わっていない可能性などを示唆されるかもしれない。もし万が一、本当にスコールが夜の悪魔だったとしても、恐らくスコールが答えないことも察しがついている。
存在が確かめられないから伝説になったのだ。今さら「はい、そうです」と名乗り出ることはないだろう。そうでなくては伝説の価値がない。誰も知らないまま想像で語り継がれてこそ伝説であり童話だ。突然、童話の登場人物が目の前に現れたって、信じられるものではない。
サイファーだって、ここ数日はずっと考えていたのだ。都合の良い解釈をしているだけだとか、それこそ思春期が終わってないんじゃないかと疑心暗鬼にもなった。その度、あの焼けた腕を思った。痩せっぽっちの、いかにも哀れっぽく青白かった腕のことを。

あの晩、サイファーは半地下にあるクラブのイベントに顔を出していて、ブラックライトが浮かび上がらせる白いシャツや、おもちゃみたいな蛍光のグリーンのラインがうねるジャージ姿が踊る影、その横で女たちが大口を開けて笑った歯が青白く発光しては蛍のように揺らぐクラゲの水槽のような場所にいた。
ブラックライトは紫外線を用いる照明器具だ。サイファーは早々に切り上げて駅に向かう直前までブラックライトの放つ紫外線の中にいて、しかも蓄光塗料を顔に塗って遊ぶ分別のない若い男女の近くにいた。何かの拍子にこぼれ落ちた蓄光塗料に触ってしまった記憶はある。タオルで拭ったが、洗うまではしなかったので、残っていたのだろう。
紫外線の残滓がこびりついた手でスコールに触れたために、太陽光に含まれる紫外線に過剰に反応する悪魔の肌が、陽に当たったとばかりに燃え上がったのだ。そう考えれば辻褄はあった。
だから、そうだろうと半ばまでは確信しつつも、確証がないので言い出せなかった。もしくは言い切るだけの自信が足りなかった。

菓子箱が半分ほど空になってコーヒーも飲み干した午後10時過ぎ、サイファーの携帯電話がけたたましく着信音を鳴らした。スコールは驚いて夜の街を散策していた意識を引き戻し、サイファーが面倒くさそうにパーカーのポケットから携帯電話を引っ張り出すのを見た。

「悪い、呼び出しだ」
「あ、いや、別に」
「休日だと思ってたんだが、仕事があるらしい」
「気にせず行ってくれ」
「また来る」
「……ああ、また」

はっきりしない再開の約束をして、その晩は別れた。
スコールはそれから冷たくなったティーカップを片付け、半分だけ残った焼き菓子を丁寧に包み直して、森を探してアパートを出た。
夏の終わりが近づく涼しい風の吹く夜のことだった





以来、サイファーとスコールは、何度か夜にスコールの部屋でお茶を飲んだり映画を見たり、それとなく友人付き合いのようなものをした。
スコールは郊外のほうにようやく養鶏場を見つけて、どうにか飢えを凌ぐ手段を手に入れていた。商売の邪魔をして悪いとは思っているので、いつもスーパーでその養鶏場の名前を見つければ買うようにしている。おかげでここ最近は、卵ばかり冷蔵庫を圧迫していた。
少しの水と、少しの塩と、少しの血。それから晴れた夜の月光浴で、夜の悪魔は息をする。あとの他はまったく娯楽なのだけれど、スクランブルエッグが得意な悪魔も、たまにはいるのだ。

近頃のサイファーは暇なのか忙しいのかよく分からないタイミングで現れては、やたら長居をしてみたり、顔を見せただけで帰っていった。長居をする時は決まって古い映画を1本携えて、俺が観たかったんだと言い訳のようなことを口にしては、スコールがパッケージを検めてストーリーや俳優の名前を読み終わるのを待っていた。スコールも映画は嫌いではないので、どんな映画でも断らなかった。
サスペンスやミステリー、ホラー、ロマンス、SF、ドキュメンタリー。なんだって観た。探偵の地道な捜査を横目に犯人はあいつだ違うと言い合ってみたり、呪われた鏡をめぐる狂気の物語に黙り込んだりもした。別れる別れないで揉める男女にハッピーエンドを予想して途中で飽きたりもしたし、超進化した科学が暴走して文明が崩壊していくのに空を飛ぶ自動車に乗りたいと童心にかえることもあった。

そんな映画たちの中でも、スコールの一番のお気に入りはクジラの背にカメラをつけて撮影された映像を通してみる、クジラの旅を巡るドキュメンタリーだった。
映画は冒頭にモノローグで撮影の経緯を簡単に説明するだけで、あとはずっとクジラに載せたカメラの充電が切れて途切れるまで、水面に浮上したり深海へ潜ったり、餌を追って遠泳する様子が流れる。元は生態研究のための映像だそうだが、あまりにも美しい映像だったので映像作品として1時間20分の映画にしたのだという。

クジラの目線で見る青い海の中は広く、終わりがなく、しかし果てがあり、空があった。呼吸のために水面へ浮上すると、地球の大きさと世界の小ささが分かる。群れと合流して、大きなクジラや小さなクジラと戯れながら海の中を進む。そこがどこの海なのかは分からない。
見たこともない色鮮やかな大きな魚がクジラの前を雄大に横切ることもあれば、銀色に光る小魚が渦を巻きながら逃げ惑う姿もあるし、奇妙な形をしたサメが素早く泳ぎ去る後に、愛らしい熱帯魚が浮遊していることもある。
それぞれが気ままに、懸命に、確かに生きていた。クジラはそんな海を、ひたすら浮いたり潜ったりしながら、どことも知れない場所へ向かって泳ぎ続けてゆく。

海の青一色の世界は美しかったが、スコールはなにより、深く深く海の底へ向かってクジラが降下するときが好きだった。
太陽から離れて落下していくかのように垂直へ進む先は暗闇で、時折クジラが身を捩ると、遠く離れた水面の輝きが見えるのだ。スコールはあの透明に揺らいで乱反射する光のハレーションが、たまらなく好きだった。

夜の悪魔は生まれてから一度たりとも、その目で昼の青空というものを見ることはない。聞くところによれば、あの藍色のベルベットの上に宝石を散りばめたような夜空も、昼中に太陽に照らされているうちは、ひとつのブルーサファイアのように空を覆っているのだという。そこへ真っ黒ではなく、純白に光る真綿のような雲が浮かんで、小鳥たちが優しく明るい歌を囀りながら飛び渡っている。そう聞いて育つ。映像では何度だって見たことはある。でも、本物は知らない。
今では記録となった誰かが、かつて幼かったスコールに、こう言った。

「私たちが滅んでたどり着く先は、そんな天国みたいに明るくて幸せな場所よ。色とりどりの花が咲いて、光が射して、柔らかい風が吹いて……離れ離れになっても、そこで会えるわ。私たちは、そこで、あなたを待っているから。寂しくなったら、思い出して」

スコールは、クジラが見せたあの光り輝く海のような場所に、きっと誰かが待っているのだと思った。名前も素性も分からない。でもきっと、誰かが待っているのだと思った。あの光の向こうに。

スコールがはっきり「そうだ」と言ったわけでもなかったが、サイファーはよくこのクジラを借りてきては、照明の明かりを落として部屋中を青い光で満たした。夜の水族館のような光景だった。
その日もサイファーはクジラを借りてきていて、スコールがなにかを言う前に、部屋の電気を落としてしまった。映画を見る頻度が増えたので新調したレコーダーの電源ボタンが鋭い赤色に光っていた。手探りで再生ボタンを押せば、もはや聞き慣れたBGMが穏やかに始まる。
今日もクジラは悠々と海を渡る。明るい海、暗い海、青い海、透明の海。遥か彼方の理想郷。いつか辿り着くべき場所。
真昼の海の中を泳ぐクジラの前に、波が撹拌した光がプリズムになって輝いた。それまで黙っていたサイファーが、不意に動いて、画面を指差した。

「あの青」
「海の?」
「そう。お前の目に似てるよな」
「……それは……考えたこともなかった」
「鏡見てみろよ、似てるぞ」
「別に、わざわざ見る必要ない」
「映らないから、とかか」
「……まさか。そんなこと、あるわけない」
「この部屋、物が少ないからなあ。鏡もねえんだな」
「だから、それは」

海のようなスコールの青い目が、波のように揺らぐ。俗説で夜の悪魔は鏡に映らないと言われている。サイファーが言いたいのは、たぶんそういうことなのだ。スコールは鏡に映る。映るが、本性が映る。夜の悪魔たるべき醜悪な姿だ。肌はまだらに黒く染まり、青い目の奥に赤い光が灯る。爪は伸びて、歯が尖り、そして背から闇が立ち上がって霧のようにスコールを包む。そういう人外としての本性が鏡の中に現れてしまう。
いくら上手に擬態したからって、人間ではないから、同じものにはなれない。夜ごとに暗がりを歩み、影から影へと渡る化物にしかなれない。

「そういえば」

凍りつくスコールに、なんでもないことのように新しい話題を出すサイファーの声色は、まるで明日の天気について語るような気軽さだった。
しかしこれが、スコールにとっては決定的な一言だった。

「仕事で郊外に養鶏場に呼ばれてな、変な話を聞いたんだ。近頃、どうも鶏の数が減ってるんだとよ」

意図せず息を呑んでしまった。サイファーの視線は、知らぬ間にスコールを捉えている。スコールは鶏の死骸をすべて持ち去り、可能な限り隠蔽したつもりだった。息絶えた鶏は食べることはできず、養鶏場の裏手にある小高い山へ行っては地中深くに埋め、申し訳程度の野花を摘んで弔っていた。
夜の悪魔は、血を飲んだ生き物を食することはできない。もし欠片でも飲み込めば、死骸が起き上がって歩き回り、朝焼けとともに激しい苦しみの中で灰になってしまう。運良く朝陽を避けたとしても、苦しんで死ぬ運命に変わりはない。一晩だけの化物を生み出すことは、夜の悪魔にとって最悪の恥辱だった。それだけは避けねばならなかった。
だから、山中に埋めて弔った。許してくれとは言えないが、無駄にはしないと誓って。見つからないと思っていた。人の行き着かぬ、獣さえいない険しい山の奥。真新しく掘り返されたばかりの土の他は、なんの痕跡も残さなかったはずだ。

「少し前から、朝になると、やけに羽が散っているんだと。野良猫にでも襲われたかと思ってたそうだ」
「俺は知らな……」
「いいんだ、スコール。そうだろうとは思ってたんだ、ずっと」
「……なんのことだ」
「それでもいいさ、別に。ただ俺は……そうだな、聞いてみたかったんだ、あの映画の感想ってやつを」
「映画?」
「俺の部屋にポスターがあるの知ってるだろ」

タイトルを諳んじるサイファーの妙に晴れ晴れとした様子は、もはや確信を持ってスコールを夜の悪魔と判じたことを物語っていた。
いつから疑われていたのかスコールには分からないことだったが、いずれスコールも滅びも間近であり、それよりも先にサイファーのほうがこの世を去るであろうことを思って、ひどく投げやりな気持ちになった。
失われるものの大きさ、その200年の孤独を前にして、ついに膝を折った。

「あの映画も……結局、おとぎ話と変わらなかった……俺にとっては」
「へえ」
「というより、俺たちでさえ真相は知らないんだ。最初の世代は知っていたんだろうが、もう伝わってない」
「そりゃもったいねぇ話だな」
「残っているのは呪いだけ……ヒトがいうほど夢のある存在じゃないんだ」
「月の女神は遠そうだからな、地上の魔女ってやつに会ってみたいもんだと思ってんだよ」
「実在したのかさえ分からない。俺たちにとっても伝説だ」
「お前がいるんなら、可能性はありそうなもんだけどなあ」
「いたとしても、会えないと思う。そういう呪いだから」
「それはそれでユメがあるんじゃねぇの」
「……会えるとしたら、きっと死んだあとに行く場所だ」

あの海に、と指差す先のクジラが遊泳する光の世界は、静かにブラックアウトした。





だからといって関係性が変わることもなく、相も変わらずサイファーは白々しいほど普通の顔をしてスコールの部屋を訪れていた。夏に出会って秋に正体を察して、年の暮れが近づいてなお、日常の会話ばかりをしていた。時折つまらない質問をひとつふたつ投げてきたが、スコールが気乗りせずに黙っていれば深追いすることもなく、そのまま立ち消えていった。
それでもスコールが答えたことはいくつかはあって、今日答えたのは不老不死かという質問に対してだった。とうに200余年を過ごしていることを告げれば、とてもそうは見えないと驚くので、見た目は長らく変わっていないかもしれないとスコールのほうが気付かされた。鏡を嫌って、自分の顔など長らく見ていなかった。

「人と比べれば、あまり外見は変化しない、んだと思う」
「ティーンにしか見えねえぞ」
「そう言われても」
「鏡見てみろよ」
「嫌だ。それにこの部屋に鏡はない」
「そこらへんのハイスクールに通ってるって言われたほうが違和感ない」
「子ども扱いするな」
「中身は200歳過ぎたジジイだもんな」

なんとも否定しづらいことを言われて、スコールはぎゅっと口をつぐんだ。外見はどうあれ、事実、200年以上を生きている。杖をついて曲がった腰に苦労しながら歩く老人よりも、よほど年老いていると言っても過言ではない。かといって、彼らほど悟っているわけでもない。体感時間が違えば、世界観も違う。同じものを見ていても、同じ感想を抱くわけではない。枯れゆく花を惜しんでも、夜の悪魔はそこに美を見出す感性がないのだ。
滅ぶものは滅ぶ。自らがそうであるように。枯れゆく花に見るものは己の末路のみ、その後に生まれる種子や芽吹く若葉まで考えることはなかった。

「でもまだ生きるわけか」
「まだ寿命は先だと思う」
「その顔のまんま?」
「……恐らく。同族で老人を見たことがない、気がする」
「なるほど、そりゃ不老不死と間違われるわけだ」
「寿命までは死にたくても死ねないんだ。人間が憧れるほど、いいものじゃないぞ」
「そこが分かんねえな。死にたくても死ねないんなら、なんで死ぬんだ」
「月の女神の呪いがある限り、死は当然、やってくる……」

まれに100年程度で寿命を迎える悪魔もいたし、500年を超えて苦悩し続ける悪魔もいたという。それでもおよそ300年で息絶えるものがほとんどだ。悪魔は生まれて100年ほどは同族と共に暮らして生活を学び、独り立ちする。
やがて同族と出会って番となれば子を成して育て、100年かけて独り立ちさせる。子が独り立ちして少しすると、母親が先に寿命を迎えることが多い。すると父親も寿命を迎える。

スコールの両親も、スコールが独り立ちして数十年ほどした頃に、母の訃報を耳にした。その後しばらくして父も後を追うように寿命を迎えたと聞く。夜の悪魔は死を迎えるときは幸福であると信じられているので、涙で見送ることはない。ささやかに祝福の言葉を捧げることが最大の弔いであるとされている。
スコールには姉がいたが、彼女も父が死んで100年もしないうちに連絡が途絶えた。およそ30年ほど前に最後に会った時、そろそろかもしれない、と言っていたのを覚えている。母が死んで寂しがる父の傍にいて献身的に支えていたのだが、その父を支えることを自らの支えとしていたような、家族思いの姉だった。父の不在に耐えかねるような言葉を残して去っていった。あれから便りも届かなくなったので、恐らく父と母の待つ場所へと旅立ったのだろう。

そんなことを漠然と話すと、サイファーはなにか納得したように頷いて、だからか、と言った。

「だから寝言でオネーチャンって言ったわけか……」
「は、寝言?」
「置いてかないで、とかなんとか」
「うそだ!」
「いやマジだって」
「お、俺は、そんな」
「拾った晩に聞いた」
「忘れろ」
「無理だな」
「最悪だ」
「いいじゃねえか、大事だったんだろ、家族が」
「……分からない」

今では記録となったものだ。大事だったのかもしれないが、もう分からなかった。使い魔に問うてみても、ただ消費して、記録として吐き出し、あとは力として振るうだけのものだ。彼ら使い魔は、答えない、答えられない。食い荒らした思い出が持っていた感情など、彼らには強弱の指標でしかなく、そこに意味は含まない。
そのことを悲しいと思うことも、もうスコールにはできなかった。使い魔の力を頼りにここまで生きてきて、今さら糾弾できるわけがなかった。独り立ちしてしばらくの頃、追い回されて身の危ぶまれた時、彼らに幾度となく助けられたのだ。感謝こそすれど、責められるわけがない。
記録の中の青写真には、いつも微笑んでいる人がいるのに、その微笑みの意味を二度と知ることはできない。生きるために、必要なことだったのだ。

「もし地上の魔女に会ったら、呪いが解かれて、俺は自由になるんだと思ってた。その時のために生きてると思ってた」
「違うのかよ」
「違ったんだ。エルオーネが……姉が去って分かった。呪いは、月の女神の言葉どおりの意味じゃないんだ」
「あれか、呪いあれってやつか」
「そうだ。血を糧にする呪い、太陽を恐れる呪い。それから、時に関する呪い。死にたくなったら、昼中に飛び出せばいいのに、俺たちはそれをしてこなかった。考えていたんだ、ずっと……」

呪いあれ。おまえは血を糧とし、飢え、乾き、苦しむ。
呪いあれ。おまえは陽を恐れ、焼かれ、乾き、苦しむ。
呪いあれ。おまえは時を忘れ、焦がれ、生き、死ぬ。

月の女神の残した呪い。夜の悪魔は、この呪いのために夜に血を求めて彷徨うことになった。しかしスコールは、姉エルオーネと最後に会った時、この呪いの言葉の謎をエルオーネが解いていたと知った。スコールも、答えを教えられたのだと最近まで気づかなかった。クジラの泳ぐ海を見ていて、やっと気づいたのだ。

「エルオーネは、最後に俺に言ったんだ。本当の父でないと知ってから、自分の気持ちが分かった……と。嘘のキライな夜の悪魔らしい正直な告白だった。俺は、そうか、としか言えなかった。エルオーネが父にどんな感情を抱いていたか、考えたこともなかったから」
「その姉さん、父親だった男に?」
「多分、そうだ。気持ちに名前がついてから、”時を忘れ、焦がれ、生き、死ぬ”の意味が分かった、と言っていた」
「夜の悪魔は、ようするに、その、あれか」
「おとぎ話そのものだ。冗談みたいだろう。でも、それが本当の死を迎える唯一の方法だったんだ……」

夜の悪魔は、愛する人ができると、その人の血のみを求めて飢えて乾き、苦しむ。しかし血を欲するあまりに殺してしまうのではないかと恐れ、同時にその人の血に焦がれて乾き、苦しむ。そして、愛するあまりに、その愛する人が死んだ後も焦がれ続けて時が過ぎるのと共に、乾き果て、死ぬ。そういう存在だった。

エルオーネは父だった存在が本当の父ではないと知ったとき、ただの男として愛する人に定めてしまった。しかし彼には愛する女がいた。父の愛する女は母となると、子を愛しすぎて、独り立ちを見届けるなり、我が子を案じるあまりに焦がれ果てて死んでしまった。愛する女を見送った父は、愛する女に会いたいがために焦がれ果てて、後を追ってしまったのだろう。残されたエルオーネは、ついに他の誰をも愛することもできず、父だった男に焦がれ果てて約束の場所へと渡ってしまった。
夜の悪魔の愛は、あまりにも狭窄で狂信的であった。愛する人を見つけてしまえば、その人のためだけに生きる。母となっても、子を愛するがゆえに果てる自分を思い、残しゆく愛する男のことを案じる気持ちも相まって、自らの寿命を縮めてしまう。こうなると知っていて、それでも愛のために子を欲する。夜の悪魔は自らの滅びを夢見ながら、それでも絶えなかったのは、その愛ゆえだった。

「月の女神は、陽に焼かれて死ぬとは言わなかった。苦しむだけだ。死にたくても死ねないんだ。だから、俺たちが死ぬ時は……誰か、愛する人が、死んだ後にだけ訪れる」
「それだとお前、ずいぶん先まで生きてそうだな」
「いや……そう遠くない日に、迎えが来る気がする」
「は、なんだそりゃ、それじゃまるで誰か」
「俺も気づいてなかった、今、この瞬間まで」

クジラが身を翻して、海の深くに向かう。青い海の高い空から、透明に輝くハレーションが降り注ぎ、部屋を青く沈ませる。
スコールの震えた冷たい唇が、サイファーのなにか言いかけた唇に押し当てられて、ひどく静かな一瞬が訪れた。約束の場所が立ち現れる。いつか、そこへ行く日が来るだろう。遠くない未来に。スコールはそれを嬉しく思った。長い夜に、終止符が打たれる日が来るのだ。唯一の希望が、我が身へと舞い降りる。それまでいくら苦しもうが、構わなかった。

「……驚いた、スコール、マジか」
「マジだ」
「えらく熱烈な告白をされたと思うんだが、その認識でいいんだよな、これは」
「断ってくれても、別に。やけに晴れがましい気分だ、このまま死んでもいいくらい」
「おいおい、どこまで俺好みなんだ!」

力任せに抱き寄せられて、いささかスコールも驚いた。そんな気はないと拒絶されて、それっきりで終わりかと思っていたので、この反応は予想外だった。本当にこのまま死ぬのだとさえ思って行動に出たので、サイファーが嬉しそうにしているのが理解できなかった。
自分でやっておきながら、そんな気持ちだった。

「……嫌がるかと思った。正直、こっぴどく振られる覚悟だったんだが」
「勝手に決めんなよ」
「だってあんた、女好きそうだし。俺は男で、しかも化物だ。普通なら叶わない」
「俺が足繁く通った理由ってやつを、ちょっとは分かってもらいたいもんだ」
「……暇だったからじゃないのか?」
「さすがに俺も自信なくすぜ」
「そんな素振りなかっただろ」
「嘘だろお前……」

実のところ、これまで映画をいくつも借りてきて一緒に観た中で、サイファーがそれとなくスキンシップを図ったことが多々ある。スコールはいつも、手を握られようが太ももを撫でられようが、微塵も気にしなかった。それでサイファーも途中から遠慮もなにもなく堂々と触っていたのだが、スコールが顔色ひとつ変えずにいたので、完全に脈がないと思っていたくらいだった。
思い切って太腿の内側へ指先を忍ばせて撫でた時などは、サイファーのほうが危機感のなさに恐れをなしたほどなので、よほどスコールが無頓着だったとしか言いようがない。もともと、そんな気がなかったのは事実だとしても。あれだけあからさまにアピールして気づかれなかったのでは、サイファーの立つ瀬がない。

「それに俺が夜の悪魔だと知ったなら、逃げるかどうかするのが普通じゃないのか」
「今さらだな」
「今さらだけど」
「俺はな、スコール。お前が夜の悪魔だからとか、そういうのでお前を好きになったわけじゃないんだぜ」
「じゃあ、なんで」
「顔」
「顔……顔って」
「待て待て、その顔が偽物で本物がどうとか言う気だろうけどな、実はお前の本当の顔は見たことがある」
「は!? いつだ!」
「映画の途中で寝こけたのを、クローゼットに押し込んだ時だな」
「いつだ……」
「しょっちゅうってことだ」

サイファーがクジラの映画ばかり頻繁に借りてきた理由は、スコールが好んでいるというのに気づいたのも理由のひとつだが、実は、この映画のときだけ最後まできちんと起きているから、というものがある。他の映画はどんな話題作だろうと、なにがしかの琴線に触れない限り、気づくと途中ですっかり熟睡している。
夜明けが来る前にと、何度サイファーが暗闇に閉ざされたクローゼットに押し込んでやったか数知れない。
クローゼットの幅ぴったりのベッドに横たえてやると、スコールは決まって、安心したように丸まって、ぬらりと影のような闇を立ち上らせた。最初こそ驚いたが、そのうち慣れて顔を覗き込めるほどになった。
月のごとく白い肌に黒いまだら模様がトライバルのような文様を描いて浮き出す様子や、犬歯が伸びて口がかすかに開くのも見たし、爪がぎちぎちと音を立てて伸びてシーツを掻き撫でるのでさえ間近に見た。
それでも、スコールの整って麗しい頬の滑らかさや、額から流れ落ちる鼻の稜線の涼やかさが失われたことはなかった。まして薄く色づいた唇などは、美しさを損なうどころか、かすかに開く隙間に覗いた内側の赤さが艶めかしいままだった。
だからといって外見ばかりに惹かれたわけでもないのだが、どうせどんなに言葉を尽くしたところでスコールの極めつきの鈍感さでは理解しないだろう。

「お前がどんな化物だろうと、俺はお前に惚れてたよ」
「……嘘つきは嫌いなんだ」
「嘘は言ってねえのも分かるだろ」
「……死ぬまで、死ぬまでだぞ」
「そのつもりだ」
「知らないからな!」

今度こそスコールもサイファーに抱きついた。命を投げ出すような、そんな思い切りの良さで。
サイファーは勢いで後ろに転がされたが、スコールを離さなかった。映画はもう終わりに近づいて、クジラが悠々と海を泳いで南の海へ至ろうとしているところだった。青く澄んで、揺らぐ海面の向こうに青空が透けている。遮るもののない明るい海を、クジラが進む。
スコールの青い瞳に、微かに赤い火が横切った。サイファーは、スコールの本当の目を見てみたいと思った。





一年の終わりが近づいて、街のあちこちにクリスマスが散らばっていた。週末ともなればクリスマス・マーケットが広場に軒を連ねて、赤や緑、白や金を辺り一面に氾濫させている。星を連ねたようなイルミネーションの電飾が頭上を埋め尽くし、真夜中近いというのに、まるで昼のように明るかった。
スコールは小さなサンタクロースの陶器人形や、手作りらしい素朴なリースを眺めながら、今までこんな風にのんびりマーケットの中を歩いたことがなかったことを思った。もったいないことをしたと思ったが、かといって今年ほどクリスマスに思い入れもなかったので、来たとしても意味がなかっただろうとも考えた。
昔のクリスマスといえば教会に人が集まってなにやら祈りを捧げ、キャンドル片手に聖歌を謳い、密やかに家族で食卓を囲んでいたように思う。スコールの知らぬ間に、ずいぶんと賑やかになったらしい。

「なんかほしいもんでもあるか」
「特に……見てるだけで。あれ、なんだっけ」
「シュトーレン。うっすく切って、ちまちま食ったな、こどもの頃」
「あんたに子供の頃があったのか」
「ひとのこと言えるかよ」
「生まれたときからこの姿ってわけでもない」
「想像つかねえなあ、ガキのお前とか」
「他の子供より小さかったらしくて、なかなか育たなかったとは聞いた。全く覚えてないが」
「お前わりと昔のこと覚えてないって言うよな」
「まあ……」

使い魔が笑っている気配がする。この頃は使い魔にできるだけ記憶を与えないようにしているが、馴染みすぎていて、勝手に記憶を食い破られることもある。昔のことはほとんど記録になってしまっていて、思い出せなくなったことは多い。できる限りサイファーの記憶だけは食べないでくれと言い聞かせてあるが、虎視眈々と狙われている。
これだけは渡すまいと使い魔との攻防を繰り広げていることなど、サイファーに知る由はない。

焼きたてのパンや菓子、かぐわしいホットワインの豊かな生活の香りがマーケットを包んでいる。行き交う人々も楽しげで、大きな紙袋や小さな箱を大事そうに抱えている姿は数え切れない。きっと誰か、家に待つ人がいるのだろう。
テディベアを両手いっぱいに抱きしめた女の子が、明るくクリスマスソングを口ずさみながら横切っていく。両親だろう2人が、笑みをこぼしながら後を追ってゆっくりと歩いていった。スコールは見るともなしに目線を流しながら、エルオーネにもあんな無邪気な幸福の時代があっただろうかと思った。今はもう失われた時代のことだ。そして二度とは戻らない。

「スコール?」
「……思い出は……思い出は作っておかないとな」
「なんだ、急に」
「死ぬとき、楽しい思い出がないんじゃ、寂しいと思って」
「そりゃまあな。随分と先の話だけどな」
「それまでにって話だ」
「思い出ね……プロポーズでもしてやろうか」
「それは最期まで取っておいてほしい」
「はあ? じゃあ、どうしろって?」
「それを考えてくれ」

マーケットは空気まで金色に輝くほど明るく、ふらふらと先を歩くスコールの毛先にも星を散らすように照らしていた。足元には夜よりも暗い影が揺らめいていたが、サイファーの目にはひどく眩しい後ろ姿だった。
寒いだろうと着せてやったボアコートは、折り返しの襟元にたっぷりとファーが波打って、スコールの頬をくすぐっている。スコールが痩躯のせいか、それほどオーバーサイズでもないはずのコートが大きすぎるように見えた。もっと細身のトレンチコートを着せてやったほうが格好はついたかもしれない。大きすぎるコートに埋もれたスコールは、やけに幼いほど愛らしかった。

サイファーはスコールの浮かれたような眩しい後ろ姿を見つめたまま、どうしようかと悩んだ。プロポーズは死ぬ間際まで禁止らしい。そうすると予定は総崩れだ。いずれ死ぬ時にスコールも死ぬ運命なら、いっそのこと永遠を誓ってやろうかと思っていたのだ、今日、この日に。
そう、今日に意味があったのだ。今までは特に意味もなく過ごしていたのに、スコールを得て、死ぬ日を意識するようになって、やけに重たく意味を持った日に。

マーケットの開かれた広場の中央には巨大なツリーがあって、家族や恋人たちが身を寄せ合って笑っている。天辺の星は白銀で、散りばめられた細かなクリスタルがイルミネーションを反射して閃き、四方を囲むレンガの古い建物の壁へと光を投げていた。古いレンガの壁に取り付けられた小さな窓辺にもクリスマスの飾りが置かれ、小さな子供によるものか、サンタクロースを待ち望む楽しげな絵が張り付けられているのが見えた。
スコールは手ぶらで、あちらこちらの屋台を覗いては、物珍しげにしている。からかうように声をかける店主もいれば、親切に説明する恰幅のいい夫人もいる。そういう人々は、スコールが戸惑いがちに返事をすれば「メリークリスマス、よい年末を」と気の早いことを言って、気前よくひとつふたつ菓子をスコールに握らせるのだった。

たぶん今日は、何事もなくても、いい思い出になるだろう。それでも強いてひとつ、なにかを残したい。スコールが望んでいることは、そういうことなのだろう。サイファーはふらふら歩いて、行く先々でポケットを膨らませてゆくスコールを視界に入れたまま、なにかあるはずだと考えた。普段はあまり悩まず即断即決を心がけているのだが、こればかりは、そういうわけにもいかなかった。
どうしたってサイファーはただの人間で、スコールを置いていかねばならない。その先に辿り着く場所があるとスコールは言ったが、いつかスコールが独りになってその場所へたどり着くまでの間を、わずかでも支える思い出にしたかった。スコールが望むとおりに。

もうすぐクリスマス本番で、世間はもっと賑やかになるだろう。家族と過ごす食卓には七面鳥やケーキが並び、暖炉の横に置かれたツリーの足元にはたくさんのプレゼントが積まれ、喜びの笑い声がこだまする。聖歌は途切れることなく歌われ、イルミネーションも明滅しながら街路樹を飾る。様々な人が、特別な思いを込めてクリスマスを過ごすはずだ。
サイファーだって、そう願っている。例年は味気なく仕事に終始したり、つまらない事ばかりに時間を費やしてしまって、気づくと終わっていた日だ。それでも今年からは、なにか意味のあるものにしたかった。

なにより今日に意味をもたせたい。12月22日、誰かにとっては平日で、誰かにとっては祝日の、このありふれた1日に。
スコールに教えたことがないので、恐らく知らないはずだった。今日がサイファーの誕生日などということは。

今日、日暮れとともにサイファーはスコールの部屋へ行って、まだ寝ていたスコールのベッドルームたるクローゼットへ突撃した。何事かと驚いて飛び起きたスコールに用意していた着替え一式を渡して、着替えたら外に出るぞと宣言したのだ。いつも部屋から出ることもなく怠惰に過ごしていたので、この提案にはスコールも面食らったようだった。
寝起きの頭でなにか言いたげにしていたスコールに有無を言わせずクローゼットの扉を締めたのは、寝乱れた姿が思いのほか目の毒だったからだが、一応、日差しが入ってはいけないからという言い訳を自分に言い聞かせた。一度たりとも手を出していないなどと清廉潔白なことは言えないが、見境なく襲うほど場を弁えぬ愚かな理性でもない。かといって、いっそベッドから出ずに一日を終えるという選択肢に魅力を感じないわけでもなかった。
強いて外に出ることを選んだのは、スコールとクリスマス・マーケットへ行ってみようという思いつきのほうが強かったからに過ぎない。
そんな理由でもなければ、いつものように部屋で怠惰極まる1日になっていただろう。

実際、来てみて良かったと思っている。
あまり明るいところでスコールを見る機会は少なく、頭上を埋め尽くすような電飾の投げかけるオレンジ色の柔らかい光の中に浮かび上がる姿は、ここに来なければ知ることはできなかったはずだ。亜麻色に透けた毛先に光がきらめいて星屑を生み、血の気のない白い頬にも沁み入って温かみを宿し、赤い閃光を隠す青い瞳に映り込んでは、朝陽のように輝く、その姿。端的に言っても、美しかった。
体温の低さ故か、平気そうに薄着でいるのを見かねて押しつけたコートにしろ、さらりと着こなしてみせている。ジャストサイズで用意したつもりだったが、体が薄く腰がくびれているのと、やたら手足が長いために実寸より華奢に見えるせいで、なにやら大人の服を着せられた子供のようにさえ思われた。
頬になつくファーを手で撫でるのを見るにつけ、まるで穢れない少女が精一杯の背伸びをして女らしく振る舞おうとしているかのような、いたいけな色香があった。
ひとつひとつの場面に新しい発見があって、サイファーは今日、ここへ連れ出したことを、ひどく誇らしく思った。スコールは何気なく散歩に出たくらいの感覚だろうが、それでも良かった。
いつか思い出した日に、こんなことがあったと笑ってほしかった。やるべきことは、そのための行動だ。

「スコール」
「なんだ」
「俺が死んだら思い出してくれ」
「なにを?」
「自分の誕生日にお前連れ出して、あのツリーの下でプロポーズしてやろうと思ってたのに、出鼻くじかれてても足も出なくなった俺のこととか」
「……ふっ……なんて? ごめん、笑い事じゃないよな、あんたにとっては、でも」
「最高に笑えるだろ」
「誕生日? 誕生日だって? なんで言わなかったんだ!」
「笑いすぎだろ……」
「だって、誕生日にそれって!」

けたけた笑うスコールは、実に罪のない無邪気さだった。予想以上に笑われて、サイファーもさすがに気まずいような腹立たしいような気分になった。それでも、ここまで思い切りよく笑われて、これが思い出のひとつになって、いつか思い出した時にも笑えるのなら、それでもいいような気もする。

「絵に描いたようなロマンチストだな」
「夢があるといってくれ」
「でも、まさか、そんなベタなことするつもりとは思わなかった」
「王道こそ正道ってもんだろ」
「ちなみに、なんて言う気だったんだ?」
「プロポーズ?」
「聞きたい」
「別の時にってリクエストだからな、教えねえ」
「ああ、そう……なら勝手にハードル上げておくからな。並の言葉じゃ頷かないぞ」
「期待してろ、一発で落ちるやつだ」
「……嘘じゃないな。そんなに自信あるのか」
「あるさ。なけりゃ言わない」
「それもそうか。でも……誕生日に、あのツリーの下で? 最高に面白い冗談だった」
「うるせえ」
「インパクト強すぎて、これはちょっと忘れられそうにない」
「願ったり叶ったりだよ!」

スコールは終始笑いっぱなしで、サイファーを指差したかと思えば広間の中央に立つツリーへ指先を滑らせて、ほんとに、などと言った。サイファーとしては大真面目に検討していたのだが、いささか笑いすぎのスコールを見ていると、出鼻をくじかれて正解だったのかもしれないと自信を失った。雰囲気さえちゃんと作っていたら、ここまで笑われることもなかったはずだと自分を慰めるしかない。
目尻に涙を浮かべたスコールは肩を震わせたまま、いい思い出だな、と言った。

「俺は、あんたが死んだら、これを思い出してひとりで笑うわけだ」
「らしいな」
「その時までには、プロポーズの内容教えてくれてないと困るからな」
「死ぬまでには言ってやる。ところで、お前にも誕生日ってやつはあるのか」
「夏だ」
「日付は」
「それは忘れた。回数が多くて、いちいち数えるのも億劫になる」

だからいつも年齢を聞かれたって、およそ200年としか答えられなかった。スコールだって最初の頃は律儀に数えていたのだが、100回目を過ぎた頃から指も足らないことだし、と数えなくなった。今では生まれた頃の西暦を推定して、ざっくり逆算している。10年や20年なんて、ほとんど誤差だ。
独り立ちする前こそ、誕生日には夏の夜空の下に丸テーブルを広げて、家族揃って静かに祝ってもらったよう思う。愛らしい小花柄のテーブルクロスが揺れている映像が、ちらりとスコールの脳裏をよぎった。丸テーブルの上にはロウソクと花束と、ケーキをかたどったアイスクリーム。小さな手に、デフォルメされたライオンのぬいぐるみ。そしてピンクのリボンが結ばれたフォーク。幼き姉が、笑っていた。
ただの記録になったはずの、遠き日の思い出。まだ忘れていないことだってあったのだ。スコールは、そうだあれは夏の夜だった、と思った。

「生まれたのは夏だった。夏の夜だったんだろうな」
「じゃあ、それなら、8月だ」
「8月?」
「忘れたんなら、今決めたっていいだろ」
「俺の誕生日をか」
「8月23日にしようぜ」
「やけに具体的だな」
「思い出深い日だぜ、意外と」
「……夏の夜か」
「そうだ、夏の夜だ」

駅裏でぶつかって、拾われた日、スコールは何月何日かなんてまるで覚えていなかった。だからサイファーが自信ありげに断言したのを鵜呑みにすることにした。
間違っていたって、かまわなかった。それがあの夏の夜だと信じる限り、8月23日が、あの夏の夜なのだ。

「あんた今日だったな」
「今日だな」
「なにかほしいものは?」
「祝ってくれ」
「それだけ?」
「お前に言われたい」
「……欲がないな」
「一番ほしいものは、もう手に入れたからな」

ふらふらと歩いているうち、気づけば広場の中央に立つ大きなツリーの下だった。モミの木に飾られたオーナメントの天使が金のラッパを吹き鳴らしながら浮かんでいる。
夜に息づくスコールの血の気の薄い白い頬は、ツリーに巻かれた赤いリボンを照り返していた。サイファーは、慎ましげに呟かれた照れくさそうな声の、その切実な響きを聞いた。ハッピーバースデー。少しでも長く共にあれますように。
朝も昼も知らないスコールの太陽を求める旅の果てのために、サイファーができることは、たったひとつの約束だった。

「なあ、今夜、俺が言いそびれたことがあるって、覚えておいてくれ。必ず伝えるから」

愛している。その一言を。
返事は、いつか至る約束の場所で。

スコールは電飾で金色に染まる夜に、リボンに赤く染められた頬もそのままに、麗しく笑って答えた。

「忘れない、絶対」

強く身を寄せ合う影はひとつに溶けて、天使の穏やかな微笑みに見守られたまま、しばらく動かなかった。
星が頭上で純白に眩く輝く、月のない夜のことだった。



fin.

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