名も知らぬ相手に│麻木 りょう様

いつもどおりの残業を終えると、通勤時間のピークを避けて帰れる。駅のホームに設置されたベンチに腰掛けていたスコールは結び目に指を差し込んでネクタイを緩めた。
今着いたばかりの列車からは、それでもたくさんのヒトが吐き出される。降りた客のほとんどが、向かいのホームにやって来る急行に乗り換えるために並び直す。そしてがらがらになった各駅停車にスコールは乗り込む。座るコトは出来ないけれど、混んだ電車が大嫌いだから助かる。だがこの頃、その事情も少し変わりつつあった。

「…扉が閉まります」

先に急行が発車し、遅れて自分の乗った各駅停車の扉が閉まる。日が落ちて外は暗く、閉じた扉が鏡のようになって自分を映した。と、その時だ。ガラス越しに視線を感じた。スコールはまたかと、はあと溜息を零した。
自分より大分背の高い、髪を短く刈った金髪の男だ。あの上背ではきっと、頭を下げて乗り込まないと額をぶつけてしまうだろうと考えるくらいに目立つ。加えて女顔の自分とは正反対の精悍な男らしい顔付きをしているから、やっかみもあってすぐに顔を覚えてしまった。
このところ毎日なのだ。空いていることを狙って乗車するこの電車に乗ると、あの男に睨まれる。その理由は分からないが…ああ、とスコールは自分の立ち位置に目を落とした。ドアの脇、少しの隙間に身を寄せていると乗降客の邪魔にならず楽が出来る。彼はこの場所に自分が立つことが気に入らないのだろうかと考えた。もしかしたら、少し前まではココが彼のお気に入りの場所で…と考えて、スコールはまた溜息を零した。いいオトナがパブリックな場所でお気に入りもないだろうと。気にすることはないと、かれはまた流れ行く外の風景を眺めることにした。
4つ目の駅で自分は降りる。そのひとつ前の駅であの男が降りる。自分を睨む視線は相変わらずだけれど、次の駅までの我慢だとスコールがガラスから視線を外し横を向いて天井を仰ぐと、その視界に金髪の男が入ってきた。彼が扉の前、スコールの向かいに立ったのだ。少し驚いて彼を見たが、因縁をつけられても損だと思い俯いた。…が。

「…そこ。油断してると危ないんだぞ」
「………」

男は何の躊躇いもなく話し掛けてきた。連れがいないのは分かっているし、彼は間違いなく自分のほうを向いている。何のコトを言っているのか分からないし、ヤバイ奴だと思っても逃げ場はなかった。

「前に、そこでチカンにあっていた女を助けたことがある」
「………だから?」

何でそんなハナシを見ず知らずの自分にするのだとか、自慢話かよ!だとか、考え出したらキリが無いけれど、そんなコトはどうでもいい。スコールは一方的な彼に次第にイラついてきていた。

「おまえ、混んでる電車に乗るときは、絶対そこに立つなよ?」
「あんた、誰だよ。なに言ってん…」

おまえ、などと見下すように呼ばれたコトが引き金になった。スコールはとうとう我慢しきれなくなり口を開いたのだが、彼はすぐに言葉を失ってしまう。

「惚れたヤツをそんな目に遭わせたくない。それだけだ」

開いたままの唇の奥で、スコールは『は?』と彼に問いかけた。だが、3つ目の駅に着いた電車の扉は開き、彼は『じゃあ、また明日』とだけ言って降りてしまった。
再び扉が閉じ、列車が動き出してもスコールの口は緩く開いたままだった。次に止まる駅の名を告げるアナウンスにようやく我に返る。彼は驚きの連続に混乱した頭で少しずつ時間を巻き戻して考え直し『なんだよ』とガラス越しの自分に呟いた。

「…そうだったんだ」

スコールは一駅分の時間を使ってようやく気付いた。彼の視線が気になり始めたときから、自分の心も同じだったことに。

fin.

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