Q.E.D. 彦坂様



 うつらうつらと薄らぐまどろみの向こう側で、前髪を撫でられる気配がした。
 本能的に眉をしかめる。が、すぐに分かった。
(…サイファー、)
 無意識に答えを唇が紡ぐ。俺にこんなことをする人間は、ひとりしかいない。
 大きな手は…院生のサイファーだ。
 正体が知れて、全身を強張らせた警戒を解くと、再び甘い眠りに引き込まれそうになる。
 無防備な状態で居るときに、他人に近づかれるのは好きじゃない。
 けれど、追っ払っても追っ払っても近寄ってくるこの男を、俺はいつからか苦手に感じなくなっている。
 起きなければ。…でも、瞼が重い。
 一呼吸ごとに意識が行きつ戻りつを繰り返し…ようやく俺は踏ん切りをつける。
 いつ誰が来るかもしれない実験室だ。いつまでも髪を触らせているわけにもいかない。
「…何時だ?」
 目を開けながら前置きもなく、訊きたいことだけを訊く。
「6時半だ」
 ぼんやりした視界に映る相手も、俺が起きたのに気づいたらしく、驚きもせず答えた。
 寝起きの人の顔を遠慮なしに覗きこんでくる両目は、機嫌よく笑っている。だが…6時半?
「…あんた、なんでそんなに早いんだ?」
 登校時間には早過ぎる。そんなに大がかりな準備の要る実験の予定も無かったはずだ。
 仮眠用のソファから身を起こし、顔を擦る。
「お前が寝てるかも、って思ってよ」
 立ちあがるサイファーの本気とも冗談ともつかない言葉に「…趣味悪い」と返して、俺は身体に掛けていた白衣をそのまま羽織る。
 泊まり込みも多い不規則な生活だから、起きぬけに誰かと居あわせることもある。
 けれど、だらしない顔を見られるのは、いまだに少しきまりが悪い。
 しかもサイファーは、それを見に、わざわざ早く来たと言う。
 俺が研究室に入ったばかりの頃から、サイファーはことあるごとに絡んで来た。
 初めは、良くあるお決まりの「ラグナ・レウァールの息子」に対する好奇心だろうと思った。
 あるいは、ただ生意気な新入りがもの珍しいだけ…そう思ううちに一年の月日が経って、今はどちらもハズレだったと分かったけれど、彼が俺に興味を示す理由は不明のままだ。
 その理由を、サイファー自身は「好意」だと言い張るのだが…俺は、本気にはしていない。
 昨夜、というか今朝は何時に横になったんだったか…、と思い出しかけて、俺は勢いよく立ち上がった。
「そうだ、結果…!」
 解析を走らせていたPCを見やってから、はっとしてサイファーを振り返った。
「…あんた、見たか?」
 俺の研究テーマは、サイファーのそれと密接にリンクしていて、彼は俺の実験内容も熟知している。
 シャーレの様子を検分していたサイファーは、冷蔵庫の扉を閉じてこちらを向き、ニヤリと笑った。
「さあ、どうだろうな?」
「…見たのか?」
「んな怖い顔すんなって、見てねーよ。それより、早く自分の目で確かめたらどうだ?」
 指差す先にあるモニタに俺は近づき、ライトが落ちている画面をクリックして開いた。
 ウィンドウに表示される数値に、目を走らせる。
 …綺麗なデータだ。
 あまりにも整っている。…本当だろうか?
 画面を切り替え、呼び出した自分の予想値と見比べる。
「どうだ?」
 サイファーが俺の後ろから、モニタを覗く気配がした。
「…期待以上だ」
「良かったじゃねーか」
 まるで最初から分かっていたような呑気な声…俺は身をひねって、背後の男を睨み上げた。
「あんた、ホントは見ただろ。…俺より先に」
 子どもじみているかもしれないが、自分が出したデータを先に見られるのは面白くない気分だ。
「見てねえ」
「ウソだ」
 緑色の目の奥をギロリと睨んで詰め寄っても、サイファーはひるみもしない。
「見てねえって。…お前の寝顔しか見てねえよ」
「それも嫌だ」
 俺の追求を受け流すどころか、逆にわざとらしい決め顔で囁いてくるのにイラッと来て、肘で近寄って来る身体を遠ざけた。
 俺が嫌がるのを楽しんでいる、と分かるのがまた腹が立つ。
「顔、洗ってくる」とデスクチェアから腰を上げたとき、サイファーが言った。
「そっちは新しい発見があったぜ。お前も寝言とか言うんだな」
 俺はぎょっとして振り返り、サイファーの顔を見た。
 …寝言? …俺が?
「…言わない」
 思わず反射的に否定する。
「そうか。じゃ、あれ寝言じゃねえのか」
 サイファーはあっさり納得し、引き続きニヤニヤと口元を緩ませている。
 …なんか、嫌な感じだ。ものすごく。
「……何て言ってた?」
「言わないんじゃないのか?」
 こうなると内容が気になる。勝手に変な誤解をされてはたまらない。
「聞いたのか聞かないのか、どっちなんだ」
 サイファーが面白がってはぐらかすのを乱暴に問い質すと、サイファーの笑い方がふいに変わった。
「…寝言って言っても、聞こえるほどじゃなかったけどな」
 まるで、本当にただ喜んでるみたいな…珍しく毒の無い笑顔を見て、ふっと記憶が甦る。
 さっき、髪を撫でる手の主に気づいたとき、その答えを追って、俺は口を動かした…

(サイファー、)
 …あの唇を読まれたんだ。

 カーッと頭に血が上った。信じられない失敗に、気が遠くなる。
「ちがう、あれは」
 寝言じゃない、と弁解しようとして、途中で口をつぐんだ。
 あの時点で起きていたなら、俺はあの手を退かさなければ、話がおかしい。
「あれは?」
「……眠ってたんだ」
 聞き返されて引っ込みがつかなくなった俺は、そう言い切ってしまうが、これも駄目だ。
 この返事だって、同じぐらい…いや、もっと、ずっとおかしい。
「そうだな、お前は眠ってたんだ。眠ってて、寝言で俺を呼んだんだよな、スコール?」
 そう言葉にされてしまうと、それは死にたくなるほど恥ずかしい嘘だ。
 ぐっと喉が詰まり、目の前がちかちかした。
 しまった。返事を間違えた…。
 くっくっ、と意地悪い笑いを漏らすサイファーに殺意が湧く。
「起きてはいたが、ただ面倒だった」と言えばまだ格好はついた、だが、もう遅い。手遅れだ。
「お前、すげえ顔真っ赤」
「うるさい」
 わざわざ教えてくれなくても、頬の熱さで分かる。
「しまった、って思ってるだろ?」
「…死ぬほど思ってる」
 ヤケクソになって本音を吐くと、サイファーは笑いながら手を伸ばし、俺の髪に触れてくる。
「なあ、いつからだ?」
「何が」
 絡んでくる腕を邪険に振り解こうとしても、サイファーがあまりに嬉しそうなのに調子が狂う。
「いつから触っても良かったんだ?」
「知るか」
 やっとのことでその腕から逃れて、足早にドアへ向かう。
「そんなに慌てて逃げなくてもいいのによ」
「顔洗って来るだけだっ」
 見透かすように笑うサイファーに言い返して、俺は部屋を出た。


 窓の外には散り空いた桜、まだ誰も居ない廊下を大股に歩いて、手洗い場で鏡と向き合う。
 鏡の中の自分を極力見ないようにして、勢いよく蛇口をひねって水をすくい、ばしゃばしゃと顔を洗う。
 春先の水はつめたく、指先がしびれた。
(いつから触っても良かったんだ?)
 そんなこと知らない。
 俺だって、知らなかった。
(サイファー、)
 あんなふうに半ば夢うつつで名前を呼んでおいて…俺は、サイファーに笑われるまで分からなかった。
 …いや、ただ、考えないようにしていたんだ。
 髪を触るのを許したのも、好意を信じるのが怖かったのも、理由なんてひとつしかないのに。
 タオルハンカチでごしごしと顔をぬぐって、深い息を吐く。
 もう、知ってしまった。それ以上に…もう、知られてしまった。
 冷やしたばかりの頬が、またじんわりと熱を帯びてくる。
 無かったことには、出来そうもなかった。
 顔を上げて鏡を見れば、情けない顔をした自分と目が合う。
 答えは簡単で、検証するまでもない。
 サイファーは俺が好きだし、…俺も、サイファーが、好きだ。 



 END





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